NO163 謎の教団16~18

16

土曜日。
槙原恂子と林理佳は、巨人ヤクルト観戦のため、水道橋に下りた。
”天の羽衣教団”ビルは今日も光と闇のコントラストを見せて、
左手の東京ドームに対して、ひときわ高く周りを睥睨している。

試合開始にはまだ時間があったので、恂子は理佳を教団ビルに誘った。
「すごく豪華って感じね」
初めての理佳は
吹き抜けの高い天井からつり下げられた
シャンデリアと噴水に見とれている。

1段ずつゆっくりカーブした階段を上りきると、奥に喫茶「羽衣」がある。
二重の自動ドアで区切られて、外から内部は見えない。
中に入って二人はしゃれた籐の椅子にくつろいだ。
小柄な愛くるしい顔のウェィトレスが近寄ってきて注文を訊く。
「野菜サンドと紅茶を」
恂子が言うと理佳が指を2本立てる。
「紅茶を何になさいますか」
「そう、羽衣を」
「かしこまりました」
膝を少し曲げ、にっこりと頭を下げて愛くるしさが去っていく。
(思わず言っていまったけど、たしかメニューには、
紅茶としかなかったはずだわ。
レモンかミルクかということだったのかしら。
でも、羽衣と言ったら、ちゃんと話が通じた・・・)

運ばれてきた紅茶を一口含むと、
懐かしい、しびれるような感覚が蘇った。
あの日3階で出されたものと同じ味であった。
理佳も気に入ったらしく、これから見に行く試合の予想や、
代打率10割の新人大内の話で弾んだ一時が過ぎていく。

”羽衣”を出ると、目の前を二人の男が通り過ぎていった。
「恂子の分900円・・・」
理佳が手を出した。
恂子は歩きながら千円札を取り出して理佳に渡そうと振り返った時。
「あっ!」小さく叫んでいた。
下への階段に気づかず、一段踏み外したのである。
膝に鈍い衝撃を感じた。
同時に身体が前方に飛び出して、持っていた千円札が宙に舞った。

「大丈夫ですか?」
気がつくと恂子は男の腕の中にいた。
どうやらこの男に支えられて大事には至らなかったようである。
男はゆっくり恂子を立たせ、顔を覗いて
「おけがは・・・」
 
 一瞬恂子は男の黒い瞳の中に吸い込まれるのではないかと思った。
 その瞳は茫洋として、どこまでも奥が深く、無限の広がりを感じさせた。
 それはまるで海を思わせた。エメラルドグリーンの南の海である。
 そして恂子は、その瞳の中に白い風波がたつのを見た。

「すみませんでした。なんともありませんわ」
やっと小さな声が出た。
もう一人の男が下に落ちた千円札を拾って手渡すと、
二人は足早に階段をおりていった。
恂子をささえてくれた男は、やせ形で背丈があり、
もう一人は中背のやや肥満体であった。
「恂子、大丈夫?」
理佳に言われて、恂子は我に返ったように大きく息をはき出した。

 17

素振りを終えてベンチへの通路に出てきた大内は、
病の床にある母のことを思っていた。
「せいぜい3ヶ月です」と医者に宣告されたとき、
残されたその期間だけでも、
いままで出来なかった親孝行をしてやらねばと決めていた。
自分がしていることは、戒律違反にちがいない。
しかし母のためには、
たとえどんな制裁を受けようと、打たねばならない。
母が安らかな時を迎えるまでは、やめるわけにはいかないのだ。

 大内は片手にバットをきつく握りしめて、ベンチへの扉を開いた。
 歓声が耳に飛び込む。一塁に草水をおいて、
 1番木谷がレフトフェンスをワンバウンドで越える
 エンタイトル・ツウベースを放ったのである。
 「大内、出番だ、いけ!」
 監督が怒鳴った。

「9回表ヤクルト最後の攻撃得点2対1.巨人1点リード。
2アウトながらランナー2,3累であります。
「イヤー、江畑さん出てきましたよ大内が。ここで、敬遠ということはありますか」
「次が池田、弘沼となれば、それはないでしょう」
「もし今日打ちますと、
15打席14安打1、四球の代打率十割をキープすることになります大内。
ゆっくりと右バッターボックスに入りました。
心なしか青ざめているようにみえますね。江畑さん」
アナも興奮気味である。

スタンドで観戦しながら、
小型ラジオで実況放送をきいている恂子と理佳にも
その興奮が伝わってくる。
「恂子。あれが今話題の大内よ」
「フーンかっこいいわね。打つかしら」
「もちろん打つわよ」

ピッチャー清藤、第1珠、外角の速球、ストライク。
第2球、同じ所へストーンと落ちるカーブで、2ストライク。
「清藤、キャッチャー田村のサインにうなずいて第3球、投げました。
外角高めのボールであります」
アナの早口がきこえてくる。
大内はバーッターボックスに根が生えたように動かない。
一球一球に観客のため息がきこえる。
清藤、第4球、外角のカーブ、はずれてツウツウ。
大内は一度ボックスをはずして、やおら入り直した。
「今度は内角ね」
「打つかしら」
「きっと打つわよ」
清藤、第5球。セットポジションからサードへ緩い牽制球。
あらためてサインにうなずく。

 18

 大内には分かっていた。
 今のサインは外角低めの速球である。
 そればかりか、ライト前に落とすのが一番力のいらない方法であり、
 そのためには、どんな角度でバットを出せばよいのかに至るまで、
 頭の中に、はっきりと描かれていた。

清藤、ゆっくりとセットポジション。
「投げました!」
アナが叫んだ。

 球が妙にゆっくりした感じで来た。思ったとおりの軌道である。
 大内は左足を軽くステップして、右にひねり、なめらかにバットを出す。
 次の瞬間彼の顔は驚愕にゆがんだ。
 外角低めに来たはずのボールが、
 ホームベース直前で、シュートすると同時にホップして、
 右を狙って捻った大内の左上腕部を襲った。
 さける余裕はない。
 「・・・・・」
 大内は自分だけにしか分からない、
 骨の折れる音と、望みの絶たれる音を同時に聴いた。

ドーム内は水を打ったように静まりかえった。
バッターボックスには右手にバットを持ったまま、
左手をだらりと下げた大内が立っている。
足下に落ちている、ボールの白さがやけに目に付く。
代走が告げられ、
大内は何人かに囲まれるようにしてベンチの奥へ消えていった。

「大事なければいいにですが。
えーその後の情報は後ほどお伝えすることにしまして、
満塁になりましたね、江畑さん」
アナが続行するゲームのほうに戻った。
観客は大内のことが気になりながらも
当面2アウト満塁の方に心を引きつけられていった。

恂子はもう一度大内の消えて行ったベンチのほうへ目を向けた。
ちょうでその時、ベンチの屋根の3,4段後ろの席から
男が一人立ち上がるのが見え、特に目立った。
男はグラウンドに注目している観客をかき分けるようにして、
通路に出ると、足早に出口へ向かって行く。
遠くてはっきりしなかったが、
恂子は、その太った体型の男を、何処かで見たような気がした。

 結局大内は左上腕部骨折、
 全治三ヶ月の重傷で、一軍登録を抹消された。
 そのためばかりではないだろうが、
 ヤクルトはずるずると調子を崩し、念願のAクラス入りはならなかった。
 一時はあれほど騒がれ、
 毎日のように新聞紙上を賑わした大内の存在もまた、
 いつしか忘れ去られていった。

”天の羽衣教団”は、ビルの完成後、
着々と信者を増やしているようだったが、
表面的にはまったく沈黙を守っていた。

恂子は相変わらず理佳と二人、
ワインとステーキで話に花を咲かせ、
GOOの編集部も、
日常の繰り返しの中で、すっかり埋没してしまったかのようにみえた。
そして年は暮れていった。

(2,出逢い 1~2へ続く)

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