NO 170

兆候

1  

陽射しが強い。
きらきらと光る水だ。
風邪が強い。
どこまでも果てしなく広がる真っ青な海だ。
周囲2000キロには島らしい島はない。
ここは南緯5度、西経113度、太平洋のまっただ中だ。
船はシドニー・パナマ航路をクロスして、赤道に平行に西へ進路をとっている。

舳先に一人の男が立っていた。
先ほどから時を忘れたように海面を見つめたまま、
そのくぼんだ頬とちじれた髪の毛を風になぶらせている。
T大海洋研究所助教授、曲立彦(まがり・たつひこ)である。

ここ1年にわたる教授争い・・・。
彼は苦い思いに浸りながら
次期教授のポストを巡る学内の確執を振り返っていた。
土壇場になって、
彼がもっとも信頼していた数名が態度を翻したのだ。

(あれはいったいなんであったのだろうか)

広大な海原に身をおいてみると、
あんな争いの一切はまったく無意味だったことを知らされる。
いや、人間の存在そのものが、
限りなく無に等しいのではないか。
彼我の思惑がどうあろうと、陽は昇り、そして沈む。
誰が教授になったところで、
大陸が沈んだり、浮かびあがったり、するわけではあるまい。
自分はやはり、自然と共に生きよう。
自然をけっして嘘をつかない。
すでに結論はでている。
K大に移れという教授の指示を蹴って船にのった。
この仕事が片づいたら大学を去ろう。
そして自分の好きな海と共に暮らすのだ。
曲は頭を上げて水平線に目を移した。

「先生・・・」
若い男が声をかけた。
「先生!」
2度目に呼ばれて、曲はようやく気がつく。
「やはり、エルニーニョですね」
答えを待ちきれないような興奮気味の声は、
今回の調査に自ら志願してついてきた、助手の四倉(よつくら)である。
そうだ、すべてはその結論を得るためにやって来たのだ。
チリのサンチャゴに集結し、フンボルト海流にのってペルーへ、・
そして、ガラパゴス諸島を巻いてここに至っている。

長い旅であった。
もう2ケ月になる。
日本を出て来たのは、12月のはじめ、
さらにこれから2ケ月ほど、太平洋上を調査して廻ることになっている。

「貿易風は十分に弱まっています。赤道反流は活発で、
表面混合層の流れも逆転し、東西の水位の差が急激に縮まっています」
「そのようだね」
曲は答えながら
結論を並べ立てるような四倉の性急な話し方に思わず口元を緩めた。
「海面水温は2度上昇です。それにペルー沿岸のアンチョビーが・・・」
勢い込んで報告していた四倉は、
いつもと違う助教授の雰囲気に初めて気がついたように、語尾を飲み込んだ。

曲立彦は、自分でも変化が分かるほど穏やかな目になって、四倉を見た。
「これから忙しくなるよ。
おそらくペルー沿岸の海面水温は5度以上の上昇になるだろう。
これは、1982年以来のエルニーニョイベントだ。
海面からの水蒸気量をはじめ、データを集めて解析し、
各地への影響などを推計しなければならない。
急がないと干ばつ、熱波、そして洪水など、
さまざまな異常気象や、それから派生する現象に対処出来なくなるからね」
四倉の見つめ返す熱い視線を感じながら、
曲は何故か、今自分は幸福だと思った。
「いやもう北アメリカ西岸や、
オーストラリア北東岸では、影響が出ているかもしれない。
君!ひょっとしたら、ここ何年か後までの世界中の幸福が、
我々の手にかかっているかもしれないのだよ」
「はい!」
四倉はひとつ大きくうなずいて頭をさげ、小走りに船室むかっていく。

(俺もあんな時があったなぁ)

曲はまた海に視線を戻した。
心なしか波が高くなったようである。
白い波頭が牙をむいて、押し寄せt来る。
ふと、彼の脳裏を最初の集積地、サンチャゴの、
異様なビルの姿がかすめた。
同じようなビルを東京でも見たことがある。
窓のない真っ黒な壁のビルだ。

今一つの決断をしてすっきりしたはずの曲の胸中に
新たな不安が湧いてくる。
眼前の大海原の中から、
しぶきを上げて浮かびあがる真っ黒なビルの幻想にとりつかれながら、
近い未来に起こりそうな、不吉な予感を無理矢理おしつぶそうとして、
曲立彦は胴震いした。

陽射しが強い。
風邪が強い。
気象庁海洋気象部、特別海洋観測船”いるかⅡ号”である。

(兆候3~4へ続く)
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