NO 175

兆候

11

その2日前、3月25日。
特別観測船”いるかⅡ号”は、ゆっくりと港に入っていった。
グアムである。

 海面水温の平均偏差が5度に達し、
 大気の上昇域が、太平洋のほぼ中央部に移動している。
 東太平洋に大量の暖水が運ばれて、海面下の赤道潜流が消失し、
 ペルー沿岸とは逆に、西太平洋の北緯10度以南では、
 海面水温が3度から5度低下している。

「エルニーニョイベントだ」
曲立彦は声に出して言った。
こけた頬が日焼けして黒い。
しかしそれは健康な黒さとは異なるようだ。
今日は髭をあたり、背広を着込んでいる。

「先生、準備ができました」
助手の四倉が大きなトランクを持ってきた。
4ヶ月におよぶ、調査観測で得られた、
膨大なデータのコンピュータ解析のために、
曲は一人東京に飛ぶことになっていた。
「じゃぁ、一足先に行っているよ、また東京で会おう」
「はい、何かすごいことになりそうですね、先生」
「ウム、君はこれからも長旅だ。体調をくずさないように頼むよ」
曲はこの先、南鳥島から、小笠原諸島を経て、東京へ向かう助手のことを、
そして、それに続くであろう超多忙を案じていた。
「大丈夫ですよ、先生」
熱い目で見つめ返すこの若い研究者の、ひたむきさに押されるようにして、
曲は足早にタラップを下りていった。

12

3月28日。
船は再び太平洋上の進路を、北北東にとっていた。
「四倉さん」
クルーの一人が寄って来て、甲板で遠くを見ていた四倉に伝言した。
「本庁から連絡が入りまして、南硫黄島の南で海底火山が噴火したそうです。
本船は南鳥島には寄らずに、現地へ直行するとのことでした」
(3月の中旬にもマーシャル諸島で海底火山が噴火したはずだが)
四倉は海をわたる爽やかな風を受けながら、ふと心がかげっていくようだった。

同じ時、操舵室。
「船長、前方1キロの海面が変色しています」
望遠鏡をのぞいたクルーが言った。
「どれ」
船長がかわってレンズをのぞく。
1キロほど先の海面が
東方向へ約500メートル幅200メートツにわたって黄緑色に変色している。
近づくに従ってはっきりしてくる。
変色水域内の一部が、100メートルほど円形の白波をたてている。
「いかん!」
船長は、レンズから目を離すと、大声で叫んだ。
「面舵いっぱい!」
「面舵いっぱい!」
答えが返ってくる。
「全速離脱!」
船長の怒鳴り声が合図のように、左舷の海面が盛り上がった。
轟音と共に水しぶきが上がり、人の頭ほどもある、薄茶色の軽石が襲ってきた。
噴火は立て続けに起こった。
ほとんど2,3秒に1回の割合で、火柱が上がり、
黒茶色の噴煙は1000メートルの高さに達した。

13

室戸岬へ発った3人を見送って社に帰った恂子は、
室内にただよっている緊張感に気づいて、
「どうしたの」
理佳に小声で訊いた。
「火山だよ」
向かいの男から答えが返ってきた。
いつもこの男は余計な時に出しゃばる。
「南硫黄島近海で、海底火山の噴火があったのよ。
すぐそばを日本の漁船団が通過中で、被害があったらしいわ」
「例のエルニーニョと関係あるのかしら」
「そういえば、日本へ帰る途中の観測船ね、
ええと、そう、”いるかⅡ号”とか言うのが付近を航行中で、
救助のため現地に直行しているってことよ」
T大海洋研の曲助教授が乗っている船である。

「ところで、室戸のほうはどうかしらね」
「あの3人なら、必ず何かつかんでくるわよ」

恂子は、そう言いながらも、どこか、不安であった。
”天の羽衣教団と集団自殺が関係しているのなら、
きっと阿井にもつながっているにちがいない。
彼には3ヶ月近くも会っていない。
しかし、そのことには何の不満もなかった。
恂子にとって、現在会わないことのほうが、むしろ未来があることで、
それが心の支えであり、生活の張りになっていた。
(それに、このペンダントがあるわ)
胸のペンダントは、まるで彼そのものであるかのように、
恂子のなかに大きな存在を占めていた。
見つめたり、さわったりすると、気持ちが和んでくるのである。

(兆候14~15へ続く)

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