覚醒
17
阿井の手元を見つめながら、
恂子はさっき別れたばかりの、理佳との話を思い出した。
「自分が本当の好きだったら、
相手がどう思っていようと、かまわないのでしょうか」
突然の質問にも、阿井は驚いた風もなく、
「相手がどう思っていようと、ということには、2種類あります。
自分が好きであれば、どんどんそれを表現していくタイプと、
まったく表面に出さないタイプです。
前者は自分勝手になりがちで、
知らず知らずのうちに押しつけになっていきます。
後者は、どこまでも自分のインナースペースを広げていき、
その膨張に耐えきれず破滅していく人と、
それを別のエネルギーに転換していく人とに分かれるでしょう」
「でも、ほんとうに相手のことを考えるなら、
一方的に自己表現するのは行き過ぎだといい、
逆に表現をしないのは非現実的で、本当の愛ではないとも言います。
それに、愛は与えるものだという人と、奪うものだという人がいるのです。
最近はそのどちらにも当てはまらないような気がして、
ほんとうに分からなくなってしまいます」
恂子は、日常のなかで、なんとなく疑問に思っていながら、
そのまま忘れてしまっているような事を口にしていた。
「迷うことはありません。
それぞれの人がそれぞれの経験から愛の形を語っているのですから、
みんなが違うのが当然ですし、
あなたが、そのうちの、どれにも当てはまらなくてもいいのです。
いや、それこそが、すばらしいことなのです・・・」
「そんな心になって、初めて真の愛の形を観ることができるようになり、
同じような人たちと巡り会えるようになるのです」
阿井は正面を向いたまま淡々と語った。
「ほんとうの愛の形というのはどんなものなのでしょうか」
いつの間にか恂子は、何の気負いもなく、彼に質問していた。
「愛には一定の形がないのです。
その意味でいろいろな人たちが語る愛の形は、
すべて正しいと言えるでしょう。
しかし、その不定形であり、どんな形にもなり得るということが、
不幸の始まりにもなるのです」
「不幸の始まり・・・」
「つまり、ある人のある時点の場合のことなのに、
それこそが愛の形だと決めてしまい、
さらに、それが、すべての人に共通するものだと思い込んでしまうのです」
「たしかに、そんな人は多いですわ。
でも、だからといって彼らは不幸だと言えるのでしょうか」
「その人はそれで十分幸福なのです。
自分の生きてきた道を肯定しようとする自衛本能がはたらいて、
自然に美化していく力がプラスされるからです」
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「井の中の蛙でしょうか」
「そう、でも大海を知ることが単純に幸福とはいえないのです。
それだけ波も荒く風も強くなるからです。
だから、その人は大海に乗り出してもすぐには沈まないような、
大きな船を造っておかなければなりません。
より多くのことを知るということは、
それだけ多くの苦しみも知ることになるのです」
「・・・もっとすばらしい愛の形があることを知らずに、
一生を終わった人たちのほうが、かえって幸せなのかもしれませんわ・・・」
阿井はまた二、三度グラスを振った。
氷のふれあう、かすかな音と共に淡い緑色の液体が光を反射し、
彼は初めて恂子の方を向いた。
「無限にきらめき変化していく愛を、そのまま感じることが大切です。
何かにこだわってはいけません。ただあるがままに観るのです。
そのためには、今のあなたのように、自然な心になることが大切です。
愛のための技術は障害になるばかりでしょう」
恂子もストゥールを阿井の方に向けていた。
彼はそんな彼女の瞳をのぞき込むようにして続ける。
「普通の場合の愛の形が三角であっても、四角や円であっても、
それはすべて同じじだということが、やがて分かってくるでしょう。
そんな見方の出来る人同士が愛に目覚めた時、
二人の愛は完全に重なり融合していくのです」
恂子は阿井の瞳の中に再び、エメラルドグリーンの海を見ていた。
風波がたち、渦を巻き始めると、いつの間にかその中に巻き込まれていった。
そこには、荒れ狂う嵐と、油を流したような凪が同居していて、
彼女はそのどちらにも属していた。
やがて嵐と凪は交互に襲ってきた。
二つの交代する時間が徐々に速度を増し、一瞬のうちに無限に変化した。
恂子は自分の身体がばらばらになるのを感じながら、
声のない悲鳴をあげて自失した。
どのくらいの時が流れたであろうか。
二つの交代が一点に収束した。
恂子は、その一点に再編成されていく自分を、
おぼろげのうちに自覚していた。
覚醒、最終部19~20へ続く)