NO 188

覚醒

19

ドローンにまじって水の音がきこえていた。
気がつくと店内に他の客の姿はない。
「送っていきましょう」
阿井が立ち上がった。
恂子はストゥールから下りたものの、
まだぼんやりしていて、足下がおぼつかない。
自然に阿井の腕にすがっていた。
壁面の通路への階段を上がりながら、
耳の奥で大きく響く自分の鼓動をきいていた。
第三の扉が開く。
理佳と一緒の時、開くことを拒否していた”未完成”の扉が頭をかすめた。
今は阿井と二人だから開いたんだわ、と唐突に思った。

 恂子は幼い頃から、
 自分の前に、いくつかの扉が立てられているような気がしていた。
 どの扉の向こうにも魅力的な世界があるようで、
 胸がおどり、迷いながら、
 時間に追われるようにして一つを選んだと思うと
 すぐ次の扉がいくつか見えてくる。
 だから、確実だと思って行動しても、それは常に不確実なものになる。
 しかし選ばないわけにはいかない。
 いや、選ばないと思った時、すでに選んでいるのである。

(運命やな・・・)
理佳の口調を思い出す。
そして今、心からそう思った。

恂子と阿井の二人は、まるで、この紅い花の世界から巣立って、
仲間のいる、壁面の世界へと羽ばたく蝶のように、
一歩を踏み出した。
阿井は右腕に、恂子の若い重みを感じている。
信頼しきった片方のふくらみが、わきに押しつけられていた。

20

(やはり流れは変えられなかった)
阿井は思った。
自分はいつでも、彼女の心をのぞくことが出来たのに、
大切に思う心が強く、今までそうしなかった。
しかし、自分はたった今、彼女に言ったばかりではないか。
ただ大切にするとか、やみくもに突き進めばよいというものではない。
そんなことを考えること自体、すでに拘っているのだ。
自分に委ねきっている彼女は何のこだわりもない。
自由で澄んだ心をしているではないか。

瞬時に阿井の心は透明に変容した。
静かに恂子の心の中に自我の一端が転位する。

マグマであった。
それは深層から徐々に明度を増しながら、ふくれあがり、
何点かで表層にはじけ飛んでいた。

阿井は自我の一端を残したまま、
捉えられている右腕を彼女の背にまわして、正面を向かせた。
ちょうど彼の胸のあたりで、潤んだ瞳が静かに閉じる。
頬の両側をかるくはさんで、上を向かせ、
恂子の額の中心に唇をあてた。

マグマが沸騰した。
額の接点から阿井の体内に流れ込んでくる。
二人の身体は、その目に見えないマグマで、しっかりと結ばれる。
瞬間、阿井は二人の未来を垣間見た。
壁面の蝶が入ってきた時と同じように、
ヒラヒラと楽しげに飛んでいた。

(「覚醒」終わり。「序破急計画」1~2へ続く)

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