NO192

序破急計画

7月1日。出勤直後。
GOO編集部のドアが開いて、編集長の岡田遥之が姿を現した。
彼の後ろに隠れるように、小柄な女性が立っている。
「注目!」
デスクの山崎が立ち上がった。
一同腰を上げて入り口を見る。
岡田は後ろの女性を右手で前に出るよう促し、紹介した。
「今日から編集部に来てもらうことになった星野美雪さんだ。
理佳の時と同様、宜しくたのむ」
「星野美雪です。よろしくお願い致します」
彼女は恥ずかしそうに頭を下げる。
岡田は恂子のそばを通りすがりに、「たのむでェ」と小声で言った。

恂子は美雪を前に自分がいた席につかせ、簡単な自己紹介をする。
「お勤め初めてですの?」
恂子にしては丁寧な訊き方である。
「ええ、今年大学を卒業しました」
「22歳?」
「はい」
「いいなあ・・・」
恂子が大げさに嘆くと、美雪はクスリと笑う。
ショートカットの髪が清潔で、特にその大きな目がいい。
きれいに澄んでいる。

若いということは、それだけで輝いている。
未来への時をたくさんもっているからだ。
古来、何と多くの人たちが、時を買おうとして失敗してきたことだろう。
(この世で一番大切なものは時なのかもしれないわ」
恂子の指が胸のペンダントにふれた。
(喉が渇いたわ)
ふと、声が聞こえた。はっとして美雪の顔を見たが、
言葉を発したようには思えない。
恂子は、おかしいと思いながら立ち上がり、
部屋の隅に用意してある、お茶を入れてくる。
「どうぞ」
勧めると、驚いたように、大きな瞳で恂子の顔をを見上げ、
すぐ目を伏せた美雪は、編集部特製のお茶を手にのせた。
よほど喉が渇いていたのだろう。
飲み終えた彼女は「おいしかったわ」と笑顔で言った。
美味しいはずもない、お湯に色が付いただけのお茶である。
「それじゃぁ・・・」
恂子は、すぐに仕事の打ち合わせにはいった。
美雪は当座与えられた、エルニーニョ関係の書類整理を始める。

9

エルニーニョの影響はその後さらに広がり、
スイスでは、雨の日の連続記録を、
アメリカでは、連続38度以上の猛暑の記録を更新しつつあった。
海面水温の上昇域はペルー沖にとどまらず、
太平洋中央部まで進出し、赤道を中心とした島々では、
水位の上昇が激しさを増すばかりであった。
一方オーストラリア北東岸では、
日照りが続き、深刻な水不足に悩まされていた。

恂子は今まであまり考えたことのなかった自然の力というものを、
思い知らされた感があった。
赤道付近でたった温度が5,6度あがっただけでも、
これほどの世界的影響が出るのである。
さらに追い打ちをかけるような、人災を重ねてはならないと思った。

岡田がのそりと立ち上がった。
みんなが見ないふりをしているのを知ってか知らずか、
悠々と部屋から出て行く。
(またモカだな・・・ったく・・・)
思いながら鉛筆を動かしていると、突然か部屋が大きくゆれた 。

ドーンという音と共に持ち上げられ、
そのまま下に放り出されたような衝撃を受けて、
恂子は思わず机にしがみつく。
横ゆれが始まった。
火を消せ。窓を開けろ。などと叫ぶ声が聞こえ、
男性記者が立ち上がるが、思うように歩けない。
壁に掛けてある絵が額ごと飛んでくる。
書架から大型の書物が転がり出る。
ガラスの割れる音を聴きながら、
恂子は無意識のうちに机の下に潜り込んでいた。

かなり長い時間に感じられたが、
実際には2分と経っていなかったかもしれない。
揺れが徐々に収まって、
机の下から這い出してきた恂子は、室内の様子に茫然とした。
編集部の何もかもが、投げ出されて混じり合い、
足の踏み場もない。
夢中で気づかなかったが、
潜った机そのものが、かなりずれて隅の方へ寄っている。

ようやく皆が動きだした。
「スッゲエなぁ」
誰かが言うのに覆い被せて、
山崎がガスの元栓を点検しろとか、
重要書類のロッカーを見てこいとか指示をだしている。
隣の机の下から、星野美雪が青い顔を出した。
出社した初日に地震の歓迎を受けるとは、
さぞかし驚いたことだろう。
一応の片付けが終わった時には、もう昼近くになっていた。

(序破急計画10~11へ」続く)

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