序破急計画
8
7月1日。出勤直後。
GOO編集部のドアが開いて、編集長の岡田遥之が姿を現した。
彼の後ろに隠れるように、小柄な女性が立っている。
「注目!」
デスクの山崎が立ち上がった。
一同腰を上げて入り口を見る。
岡田は後ろの女性を右手で前に出るよう促し、紹介した。
「今日から編集部に来てもらうことになった星野美雪さんだ。
理佳の時と同様、宜しくたのむ」
「星野美雪です。よろしくお願い致します」
彼女は恥ずかしそうに頭を下げる。
岡田は恂子のそばを通りすがりに、「たのむでェ」と小声で言った。
恂子は美雪を前に自分がいた席につかせ、簡単な自己紹介をする。
「お勤め初めてですの?」
恂子にしては丁寧な訊き方である。
「ええ、今年大学を卒業しました」
「22歳?」
「はい」
「いいなあ・・・」
恂子が大げさに嘆くと、美雪はクスリと笑う。
ショートカットの髪が清潔で、特にその大きな目がいい。
きれいに澄んでいる。
若いということは、それだけで輝いている。
未来への時をたくさんもっているからだ。
古来、何と多くの人たちが、時を買おうとして失敗してきたことだろう。
(この世で一番大切なものは時なのかもしれないわ」
恂子の指が胸のペンダントにふれた。
(喉が渇いたわ)
ふと、声が聞こえた。はっとして美雪の顔を見たが、
言葉を発したようには思えない。
恂子は、おかしいと思いながら立ち上がり、
部屋の隅に用意してある、お茶を入れてくる。
「どうぞ」
勧めると、驚いたように、大きな瞳で恂子の顔をを見上げ、
すぐ目を伏せた美雪は、編集部特製のお茶を手にのせた。
よほど喉が渇いていたのだろう。
飲み終えた彼女は「おいしかったわ」と笑顔で言った。
美味しいはずもない、お湯に色が付いただけのお茶である。
「それじゃぁ・・・」
恂子は、すぐに仕事の打ち合わせにはいった。
美雪は当座与えられた、エルニーニョ関係の書類整理を始める。
9
エルニーニョの影響はその後さらに広がり、
スイスでは、雨の日の連続記録を、
アメリカでは、連続38度以上の猛暑の記録を更新しつつあった。
海面水温の上昇域はペルー沖にとどまらず、
太平洋中央部まで進出し、赤道を中心とした島々では、
水位の上昇が激しさを増すばかりであった。
一方オーストラリア北東岸では、
日照りが続き、深刻な水不足に悩まされていた。
恂子は今まであまり考えたことのなかった自然の力というものを、
思い知らされた感があった。
赤道付近でたった温度が5,6度あがっただけでも、
これほどの世界的影響が出るのである。
さらに追い打ちをかけるような、人災を重ねてはならないと思った。
岡田がのそりと立ち上がった。
みんなが見ないふりをしているのを知ってか知らずか、
悠々と部屋から出て行く。
(またモカだな・・・ったく・・・)
思いながら鉛筆を動かしていると、突然か部屋が大きくゆれた 。
ドーンという音と共に持ち上げられ、
そのまま下に放り出されたような衝撃を受けて、
恂子は思わず机にしがみつく。
横ゆれが始まった。
火を消せ。窓を開けろ。などと叫ぶ声が聞こえ、
男性記者が立ち上がるが、思うように歩けない。
壁に掛けてある絵が額ごと飛んでくる。
書架から大型の書物が転がり出る。
ガラスの割れる音を聴きながら、
恂子は無意識のうちに机の下に潜り込んでいた。
かなり長い時間に感じられたが、
実際には2分と経っていなかったかもしれない。
揺れが徐々に収まって、
机の下から這い出してきた恂子は、室内の様子に茫然とした。
編集部の何もかもが、投げ出されて混じり合い、
足の踏み場もない。
夢中で気づかなかったが、
潜った机そのものが、かなりずれて隅の方へ寄っている。
ようやく皆が動きだした。
「スッゲエなぁ」
誰かが言うのに覆い被せて、
山崎がガスの元栓を点検しろとか、
重要書類のロッカーを見てこいとか指示をだしている。
隣の机の下から、星野美雪が青い顔を出した。
出社した初日に地震の歓迎を受けるとは、
さぞかし驚いたことだろう。
一応の片付けが終わった時には、もう昼近くになっていた。
(序破急計画10~11へ」続く)