SF小説「ムーの幻影」2

謎の教団

 1

”天の羽衣財団”訪問の当日、快晴。
夏の陽がギラギラとアスファルトに照り返っていた。
槙原恂子とカメラマンの藤森良は、
教団ビルの正面に社の車を横付けさせ、
30メートルはあろうかという、総ガラス張りの入り口に向かう。
近づくと3メートルほどのスペースが左右に開いて、二人を迎え入れた。
さらに10メートルほど進んで、第2の自動ドアが開く。
正面に長いカウンターがあり、
水色のユニフォームをつけた女性が3人並んで頭を下げた。

「月刊GOOの槙原です。大沢常務におめにかかりたいのですが」
「お約束でございましょうか」
「ええ、1時ということになっています」
「少しお待ちくださいませ」
一人が内線らしい受話器を取ってボタンをプッシュしている。

カウンターの左右奥に広い階段が、
鳥が羽を広げたように対をなしている。 
2階まで吹き抜けになっている中央部には噴水がある。
その周囲には背の高い観葉植物が配置され、
一見なんだか分からないような形の椅子や、
ベンチが置かれて、6,7人がくつろいでいる。
階段の奥には、テナントのものらしい店構えがあるが、
まだ営業しておらず、サイケデリクな模様のシャッターが下りている。

「槙原様、お待たせ致しました。
NO3のエレベーターにお乗りになって3階でお降りくださいませ」
受付嬢に手で示された方に進むと、
広いホールを挟んで左右にずらりとエレベーターが並んでいる。
(フーン、さすがに雄大な感じね。ええと、NO3は・・・)
良ちゃんが先に見つけてボタンえお押している。
待つ間もなく扉が開く。
なぜか恂子は乗るのを一瞬ためらった。
「早く乗れよ」
良ちゃんがぶっきらぼうに言う。

3階につくと、先ほどと同じユニフォームの女性が待っていて、頭をさげた。
通路の左側は、床から1メートルくらいとドアの部分以外は、
すべてガラス張りになっていて、何処かのスタジオのような感じがする。
外部に音は漏れないが、かなりの人数が仕事をしている。
第3応接室とプレートされた部屋に案内される。
中央に大きなテーブルのある応接セットが、縦に並んでいる。
壁には適当な間隔で絵が掛けられているが、
特に飾っているという印象ではなく、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
二人が入り口側の椅子に腰をおろすと、ほとんど同時にドアが開いて
濃紺のチェックのはいったスーツに身を包んだ銀縁メガネの男が現れた。

 2

「いらっしゃい、私が大沢です」
気さくにに名刺を出し、どうぞと二人を促した後、自分も大きな椅子に座った。
中肉中背、真面目そうで、しかし、人の心をそらさない物腰である。
「本日は、”天の羽衣教団”と、その財団についてお伺いしたいのですが・・・」
時間が決められているので、恂子は早速切り出した。
「それでしたら他の団体と何ら変わったことはございません。
当財団は教団を経済面からバックアップするために設立されたものでして、
そのほかに特別なことはありません。
なにぶんにも、まだビルが完成したというわけではございませんので・・・
お茶がきたようですね」
大沢が言うと、かぐわしい紅茶のの匂いとともに、
今まで何もなかったテーブルの上に
風変わりな形のカップと銀製のスプーンが受け皿にのって現れた。
大沢が何かしたわけでも、勿論誰かが運んできたわけでもない。

「どうぞ、冷めないうちに」
大沢はメガネを右手でちょっと上げる仕草をしながら二人に勧める。
砂糖もレモンもない。
ただゆらりと生き物のように立ち上がり、拡散していく
芳醇な香と白い湯気が、まるで手招きでもしているように見える。
一口含むと、舌に喉に食道にと心地よい刺激が走った。
弱音の弦が、トレモロを奏でているような軽い痺れにおそわれ、
身体全体がすっきりした気分になってきた。

「宗教上のことについては、私どもは何も知らないのです。
まあ、私も一応10階梯ある教団の最下層には格付けされておりますが・・・」
「階梯というのは、どのようなものなのでしょうか」
「私ども第1階梯のものには、何も教えられておりません。
ご期待に沿えなくて申し訳ございませんが、財団側からは、
理事長の古谷だけが、第2階梯以上であるらしい、としかお答えできません」
「毎日同じところで仕事をしていても分からないのでしょうか」
「そうです。階梯が違うと、上の人がその気にならないかぎり
こちらからは会うことができないのです」
「しかし上の階梯の人が何処かへ消えてしまうわけではないでしょう」
大沢は恂子のストレートな質問にちょっと困惑顔になり、
タバコに火をつけると言葉を選ぶように語りだした。

「消えるわけではないのですが・・・このビルは64階まであります。
一般の人たちは、9階までしか上れません。
それから上は宗教上の・・・つまり、一種の聖域になっておりまして・・・
私たち第1階梯の者は18階までは、上れるのですが、
その上へは行けないのです。
ですから階梯の上位の方が19階以上に上がった時には、
会うことが出来なくなるのでございます」
「階段やエレベーターは?」
「少なくとも18階まではございます。
しかしその上へは行ったことがありませんので、
なんとも申し上げようがございません・・・
ええと、ともかく9階まではご案内できますが、おいでになりますか」

(フーンそんな戒律なんて気にしなけりゃいいじゃないの}
「ええ、お願いします。でも私たちが19階以上に上がったらどうなるのでしょうか」
恂子は学生時代にはとても言えなかったことでも、
この世界にはいってからは、すらすらと口に出るようになっていた。
自分はジャーナリストの一人であり、
それなりのバックを背負っているという自覚がある。
「それは、あなた自身が教団にはいってみないと、
お分かりにならないことなのです。
私どもは決して戒律を破ぶたりは致しませんし、
実際にそう出来ないようになっているのでございます。それでは、どうぞ」

大沢は二人を促して立ち上がり、恂子の横にすっと寄って並んだ。

3

(なんだか分かったような、分かんないような気分だわ)
大沢の説明が続く。
「ここは3階ですが、上の4階と2フロアを財団で使用しております。
財団には一般の会社と同じように、
総務部、人事部、営業部、秘書室、調査室などがございます。
変わったところでは、教導部というのがありまして、
教団側から出向してきた何人かと、合同で仕事を進めております」

ほとんどガラス張りなので、通路から中の仕事ぶりがよく見えた。
良ちゃんがシャッターを切る。
「申し訳ございませんが、写真は4階までで、
それから上はご遠慮をお願いいたしております」
聞こえているのだろうか、良ちゃんはやたらと撮りまくっている。
「5階から8階までは宿泊施設で、地方からおいでになった、
一般の信者のためのものでございます」
階段を上っていくと両側にホテルのようなドアが並んでいる。
まったく足音がしない。すばらしい吸音性である。

5階からエレベーターにのって9階についた。
「ここは、入信希望者や第1階梯前の信者たちの・・・
研修の場とでも言うべきところで、
各室はそれぞれの目的に合わせて造られており、
いわば、
学校の教室のようなものと、お考えいただければよいかと思います」

各室ともドアは閉じられていたが、
上部にのぞき穴のようなものがあって、多少内部を見ることが出来る。
一般の教室のような部屋の他に、体育施設や、壁も床も真っ白な部屋、
いたるところに様々な図形が描かれている部屋、
凹凸のたくさんある、奇妙な形の部屋などが並んでいる。
しかし、どの部屋にも研修生らしかい人影は見当たらず、空室になっていた。
「研修の人たちはどうしたのでしょうか」
「ただいまちょうど、各自の部屋での、お祈りの時間になっておりまして・・・」
(フーン何か妙だな。その時間に合わせて呼ばれたようだ。
何かあるぞ。これは、きっと公表出来ないことが隠されているわ)
恂子は軽く首を振った。
セミロングの柔らかい髪がサラリとゆれた。

 4

同じ頃。ビルの18階。
白い寛衣を着た一団が、長い通路を進んでいた。
一列に並び、それぞれ2メートルほどの間隔をとりながら、半眼の表情で、
何かに強く意識を集中しているように見える。
どこかに光源があるのだろうか、
うす暗い中で、左右の壁自体が微かに発光している。
やがて列は、壁にほのかな二重のシルエットをつくって右へ曲がった。
歩みは静かで整然としている。足音はしない。
ゆっくりではあるが、遅滞のない確実な歩みである。

正面に階段が見えてきた。
列がその階段を上り始めると、左右の壁が赤く発光して、
何かが彼らに吹き付けているのが分かる。
半透明の赤い霧とでもいおうか、
それは、彼ら自身にちょっとした熱を感じさせ、殺菌効果をもたらす。
同時に彼らの頭の中には、柔らかい声が響き渡っていた。

(他に何も考えてはいけません)
(ただ一途に次の階梯へ進みたい願うのです)
(今あなた方は、
人間の苦から離脱するための”希望の階段”を上がっているのです)
霧は濃さを増し、前を行く者の姿が朧にしか見えない。
全身が燃えるように熱い。
階段を上りきると、そこは10メートルほど進んで行き止まりになっている。
正面の壁に、何か影のようなものが浮かびあがって来た。
列は、相変わらずゆっくりと確実に行き止まりの壁に向かって近づいていく。

(心を身体に感じる赤い色で満たしなさい)
(その中に白い羽衣を見いだしなさい)
(その羽衣の内にこそ、あなたの未来があるのです)
正面の壁いっぱいに、今やはっきりと、白い羽衣を纏った天女の絵が見える。
いや、絵というにはあまりにも実在感があった。
まるで壁面に本物の天女が浮き出して両腕を広げ、
心からほほえんでいるようであった。

・・・と、先頭の一人がゆっくりと羽衣の中に吸い込まれていった。
天女がその人間を抱き取ったように見える。
同じ歩調で進む一団は、2番目3番目と、次々に壁の中に消えていった。

 5

エレベーターで3階にもどると、最後に出てきた大沢が微笑しながら言った。
「そろそろ時間ですので、次の会議に出なければなりません。
1,2階はパブリックスペースとなっておりますので、ご自由にご覧ください」
恂子が何か割り切れない気持ちで2階への階段を下りかけたところで、
後ろから大沢の声がかかった。
「羽衣の紅茶はいかがでしたか。2階の喫茶でもお出ししておりますよ・・・
ではまたおいでください」

2階に下りる。なるほど左手に純喫茶”羽衣”の看板がでている。
「良ちゃん、ちょっと寄っていかない?」
「いや、俺は次の仕事があるんでね」
「フーン売れっ子はご多忙というわけね」

外に出ると午後の日射しがまぶしい。
教団ビルを中心に吹き付ける風が、髪を飛ばしそうに激しい。
良ちゃんが大きく背伸びをしている。
30歳前にして報道写真では、業界1,2といわれている彼も、
ほとんど撮影禁止とあっては、借りてきた猫のようなものであった。

恂子にしても取材というものではなかった。
何も聞き出せないうちに、うまくかわされてしまったような気がする。
(また、おいでくださいとは、どういう了見だろう。
そんなに何度も行くと思ってんのか。こっちは忙しいんだぞ)
恂子は赤になった信号で止まり、何となく後ろを振り返った。
来たときは車で乗り付けたので気がつかなかったが、
教団ビルは左手に東京ドームを見下ろして、
道路をはさんだ右手奥に独特な威容を誇っている。

 6

 八角形だという教団ビルは、
 ここから見るとその第四面をわずかにのぞかせている。
 上から1/5位の高さのところで、
 八方にテラス状に突き出した部分が、
 ビルの高さに対して直角に見え、
 徐々に尖っていく頭頂部分と相まって、
 昔あったという、宝蔵院の十文字槍のような形をしている。

 下から1/3くらいの所から上には、一切窓らしいものがない。、
 どのような構造になっているのか、
 十文字から下の窓のない壁面は、
 午後の強い陽射しを受けても漆黒のままである。
 それに対して上部の少しずつ尖っていく面は、
 七色に明滅し、陽炎のように揺らいで、
 ビルの頭部をおおっている。
 それはまるで仏像の光背を思わせた。

「良ちゃん、2,3枚撮っておいて」
2,3,枚どころか、良ちゃんのかなりの数のシャター音を聴きながら、
恂子の目はビルの方に引き寄せられてしまう。
気がつくと通行人たちもみな、一度はビルを見上げている。
どの顔にも一様に、たんなる驚きばかりではない、
何か超自然的なものを目の当たりにしたような、
畏怖の表情が浮かんでいる。
「ナムアミダブツ・・・」
一人の老婆がビルに向かって両手を合わせている。
良ちゃんのシャッター音が続く。

何度か信号が変わって二人はE電駅のほうへ歩き出した。
二人とも無言である。
肩をふれあうように流れる人の波も、何となく色あせて見えた。
恂子は麻雀牌をつまむ手つきをしながら、
「良ちゃん今夜もこれ?」
努めて明るく言う。
「まあね。ところで俺は見たぜ。
紅茶がテーブルの中から出てくるのをさ。
あれにパイでも付いてくりゃ、もっといいのにさ」
(たまには洒落も言うのね。
でも、ほんとアップルパイでも一緒にでてきてくれるとよかったのに。
それにあの紅茶の味・・・)
思い出しただけで、頭の中がくすぐられるような感覚が蘇ってくる。

社に戻ると、恂子は勢いよく編集部のドアを開いた。
「ただいま!」
「早かったね、うまくいったの」
デスクの山崎が訊いてくる。
「それが、全然だめでした。言えない見せない行かせないの3拍子に加えて、
写真もだめときちゃあ、お手上げですわ・・・」
最後のほうはブツブツと独り言になっている。

こんな時、いつもお疲れ様と声をかけてくれる理佳が
今日は何が面白くないのか、ブスッと机に向かっている。
例によって岡田の姿は見えない。

向こう側の席でスポーツ関係担当者たちが、
最近出てきた、代打率10割という新人の話題に花を咲かせている。
「必ず打ちますって言ったそうだよ」
「へー、しかし13打席12安打1四球とはまたすごいことをやってくれましたねェ」
「8月になって突然出てきた新人で、テスト生でもないってことだよ」
「ほー、幻の新人か。最近ヤクルトもやるね、で、何てェ名だい」
「大内とかいったな」
「なるほど、そいじゃァ打つわけだ」
大きな笑いが起こり、
最近のお前にしてはヒットだとか、いや2塁打だとか言い合っている。
(なんて暇な人たちなんだろう。ウルサイ!)

電話が鳴った。
右手で原稿を書きながら、左手で受話器をとる。
「恂子か、原稿書けたかいな」
岡田の大声が飛び込んで来た。
(んーもういやになっちゃう、どうして帰ったのがわかったのかしら。
それに全然期待してないような言い方じゃないの。こっちはクサってんだぞ。
冷たいビールでも飲みたいところなんだから)
「おい、何をボケっとしとるんや。
ビールとまではいかないが、アイスコーヒーでもどうや。原稿忘れるなよ」
ガチャンという音で恂子は我に返り、思わずマスコット人形の鼻をつつく。
「いやなお方・・・」

なんだかいままでの疲れがスーと引いていくような気がした。
残りを手早く書き終えて立ち上がる。
隣の理佳が雑用紙の上に書いた文字を、何度もなぞって太らせている。
(おかしいぞ、何かあったな。きっと彼のことにちがいない)
恂子は何となく声をかけそびれて、そのまま部屋を出た。
左脇に原稿の入った紙袋を抱え、内容の乏しい割には足取りが軽い。

 8

自走ベルトの上から覗いて見ると、”モカ”はすいていた。
ママの三枝由美がサイフォンに上がってきたコーヒーをかき混ぜている。
ゆるくカーブしたカウンターの奥が岡田の定席である。
ここからは死角になって見えないが、
紫煙が立ち上がっているのが、彼のいる証拠である。

”モカ”のドアを開いた恂子は、
ほほえんでくる由美のほうへ、シィーと唇に指をあてて、
岡田のほうへ忍び足で近づいていった。
岡田は恂子がそばまで行っても顔を上げず、
何かレジスターで打たれたような細長い紙をじっと見つめている。
恂子は向かいの席にわざとドスンと座った。
「オッ!何時来たんや」
(フーンだ、知ってたくせに、何時だってとぼけてるんだから)
「ハイこれ、例の原稿です」
恂子はそれでもちゃんと原稿を取り出し、
彼の方から読めるように回して、テーブルの上に置いた。

「いらっしゃい」
由美の声と共にアイスコーヒーが来る。
(さては、今つくっていたのがこれだな。
さっきの電話といい、なんてタイミングがいいんだろう)
「いただきまーす」
 
 シロップを十分に入れてかき混ぜ、
 氷の下に入り込まないようにミルクを浮かす。
 コーヒーとミルクの境目のあたりにストローヲ差し込んで吸う。
 二つの微妙な混じり具合と、氷とコーヒーの温度差が魅力で、
 これが、恂子式アイスコーヒーの飲み方である。

原稿に目を通していた岡田は、新しいタバコの火をつけてニヤニヤしている。
「こりゃ、アカンコのマリモやなぁ」
「えっ!」
「天然記念物。欲しくてももってこれない。つまりどうしようもないってことや」
「自分でもそう思います。ほんの輪郭だけしか分からなかったんですもの・・・」
恂子はついしおれる。
岡田の前では何故か素直になれるようだ。
「うん、どうせ宗教上の秘密っていうやつやろう・・・
よっしゃ、ほんなら逆に、謎また謎の羽衣教団つーのでいくべぇ」
恂子は思わず吹き出して、あわてて口を押さえた。
まったくこのお方の言葉ときたら何が飛び出すかわかったものではない。
でも、その時その時の雰囲気に合っているというか、
彼が言うと、おかしさはあっても、違和感がない。
「そんな感じを強調してまとめてんか」

岡田は恂子に原稿を返して、またあの細長い紙を取り出して眺め始めた。
裏側から見ると数字の列が並んでいるのが分かる。
もう恂子のことなど眼中にないような岡田の態度が、
ちょっとしゃくに障るが、彼ならば仕方がないと思い直して
アイスコーヒーをすすり、原稿のまとめを考える。

「オイ、まだいたんか。アホ、仕事や仕事」
頭を上げた岡田が言う。
(フーンだ。自分で来いって言ったくせに、まったく!)
恂子ははじかれたように席を立ち一気に店の外に出た。
原稿のまとめも頭が痛いが、
ふと、ブスッとしていた理佳のことが気になってきた。

編集部に戻ると、理佳の席が空席になっている。
机の上がきちんと整理され、
その上を風呂敷でカバーしてあるのが、理佳の帰った証拠である。
恂子が帰って来たのをみて、訊きももしないのに、向かいの男が言った。
「風邪だってさ、お人形さんはウイルスに弱いんだって」
(理佳と何か言い合ったんだな。女性が何かすると、すぐ口をだすんだから)
「熱、あるって・・・?」
「高温多湿だってさ。
アマゾンじゃあるまいし、熱の出るようなことでもしたんじゃないのか」
「女性はデリケートなんです」
「理佳がねぇ・・・ところで帰りにメシでもどうだい」
(フーンだ。どさくさに紛れて誘うんだから・・・
その目的で正式に誘ってみたらいかが・・・どうせ断るけど)
「今日は用事がありますから」
きつい感じに向かいの彼が鼻白む。

恂子はそのまま原稿の書き直しにかかった。
(編集長の読んでいた細長い紙片は何だったのかしら)
右手をせっせと動かしながら、ときどき別なことを考える。
(理佳先輩はどうしているかしら)
恂子は手を止めて
「帰ったら電話しようかな」
ささやいた。
「えっ、」
向かいの彼が身を乗り出す。
(あんたじゃないの!)
恂子は苦笑してマスコット人形の鼻をつつく。
 
10

「もう5日めだわ・・・」
林理佳はふと夕食の手を止めてひとりごちた。
新しい就職について今は何も訊かないでほしいと言っていた彼の顔が浮かぶ。
仕事に就く前にかなりきつい研修があると言っていた。
(どんな研修だろう)
「しばらく会えないけど・・・時々電話するよ」
そう言った彼に、
ほんとに声だけでもきかせてねと言ってあるのに・・・。

知り合って半年あまり、彼とはほとんど毎日のように会っていた。
今ではそれが当然のことで、
彼は理佳の生活から切り離せない存在になっていた。
(たった5日なのに)
会えなくなってみると、
自分の中に大きな穴があいたようで、
何をしても心の隙間を埋めることが出来ない。

今日は水曜日、仕事の都合で近くまで来るからと言って、
いつも彼が立ち寄ってくれる日である。
今日こそは来てくれるのではないかしら。
彼が来ると、理佳は彼の好物のスキヤキをつくり、
二人でつつきながらグラスを傾け、ナイターの中継を見た。
一球一球に大声をあげたり、
ひっくり返ったりする彼の仕草が子供じみて面白く、
理佳はつい口元をほころばせる。
彼のそばにいるだけで飽きることは無かった。

プロ野球のことはほとんど知らなかった理佳だが、
ヤクルトのファンで、中継が少ないとぼやいている彼と試合を見ているうちに、
最近では選手の名前はもちろん、
個々の打率や投手成績に至るまで、覚え込み、
いっぱしの評論家にでもなったように、
各プレーヤーについて、彼とやりあったりしていた。

もう、ナイター中継の時間である。自然に手がリモコンに伸びる。
今日は神宮球場のヤクルト阪神戦。きっとどこかで、彼も見ているに違いない。
 
 4回まで、両チーム無得点。
 「タイガースはどうしたんでしょうね。毎回のようにランナーをだしているのに、
 決定打がでません。お客様が怒りますよ」
 解説の川原がいっている。

それにしてもどうして5日も連絡してこないのだろうか。
(電話するって言ったくせに)
彼のアパートの電話は呼び出しである。
管理人のおかみさんの、ものの言い方が妙に底意地が悪く、
いやそんなことではなく、こちらから電話するのは、なんとなくしゃくに障るし、
来れないのなら、必ず彼の方から電話があるはずだ。

 「わあー」
 歓声ががあがる。
 1番真矢が左中間に2塁打をはなったのだ。

電話してみよう。
手を伸ばす。数字を5つまでプッシュしてやめる。
今夜はきっと連絡がある。
私がこうして待っていることは彼がいちばんよく知っているはずなのだ。
理佳は思い直して箸をとったが、食欲がわかなかった。
胃がせり上がってくるようで、食べ物を受け付けない。
毎日のように会っていて、
あんなに愛していると言ったのに、あんなに強く抱き合ったのに・・・。
理佳は、たった5日間連絡がとれないだけで、
もう半分彼の心が信じられなくなっている。
(二人の仲はこんなものだったのかしら。
こんなに脆いものだったのかしら・・・)

 5回の表、タイガースの攻撃。
 1アウト、ランナー2塁に真矢。
 しかし、ホメリーがバックスクリーンぎりぎりのセンターフライで、2アウト。

ひょっとしたら病気で寝ているのではないかしら。
来たくても熱が高くて動けないのかもしれない。
やっぱり電話してみよう。
理佳はもうすっかり覚えてしまった8桁をプッシュした。
呼び出し音が鳴る。
3回、4回、5回・・・8回まで数えて受話器を耳から離し、
それでもきこえる音をさらに3回聴いて、4回目が鳴ると同時に切る。
(管理人はいないのだろうか)

11

 5番山田、レフトポール際にホームラン性の大ファウル。
 ピッチャー梶、ちょうと苦笑い。
 ツウスリーの後アウトコースのボールになるカーブ、空振りで三振。
 阪神タイガースこの回も無得点。
 「どうしても一発が出ませんね、川原さん」
 「そうですね。こういう時監督は胃が痛むんですね。
 ああ、そういえば、この番組のスポンサーは上杉薬品でしたね」
 アナと二人で笑っている。

(私も胃腸薬でも飲もうかしら)
 5回の裏、ヤクルトの攻撃がはじまる。
(こんなに待っているのに連絡もしないで・・・嫌い!)
(そうよ、嫌いよ大嫌い)
(ヤクルトも嫌い、いつも下のぽうにいるなんていや)
 気持ちがだんだん拗ねていく。
(いいわよ、フン。もう会ってやんないから)

突然電話のベルがなった。

思わず飛びついて「あな・・・」
「えっ、あっ先輩でしょ」
「なんだ恂子か」
「何だはないでしょう先輩。せっかく心配して電話したのに」
「あぁ、ごめん、ごめん」
「今日は一言も口をきいてくれなかったわよ。
黙って早退したりして・・・風邪ですか?」
「うん、ちょっとね」
「熱があるとか聞いたけど」
「また、お向かいさんが言ったのね。まったく口だけは達者なんだから」
「でもなんだか気になったもんだから」
「心配ご無用。何でもないんだから。それより例の教団の取材はどうだった」
理佳は明るい声で言う。
今の自分の心の動揺を気取られたくはなかった。

「あまりパッとしなかったわ。
あっ、先輩野球みてるんでしょう。
音が聴こえるわ。
実はね、今度の土曜の東京ドーム、巨人、ヤクルトよ。
内野席が2枚手に入ったの、行かない?一緒に」
「うーん、たまには女同士の野球見物も悪くはないわね」
「じゃぁ行きましょうよ。明日は出てこられそう?」
「うん、大丈夫」
「じゃぁその時ね」
先輩後輩の間であっても、お互いに相手のことを考えながらの会話である。

彼からの電話では、なかったけれど、
それでも、だいぶ落ち込みがとれたような気がした。

 12

 ひときわ大きなどよめきが起こった。
 0対0のまま9回の裏、ヤクルトの攻撃。
 2アウトながらランナー3塁。
 「13打席12安打1四球という、
 驚異的代打率十割を誇るヤクルトの新人、大内の登場であります。
 川原さんどうでしょうか」
 「まったく信じられないことが起こるから、野球はおもしろいんですね」
 ピッチャー後藤、ランナーを横目で見ながらセットポジション。

理佳は思わず身を乗り出した。
ヤクルトファンの彼と共に、最近はもっぱら大内に熱をあげている。
投げた。
打った。
「やったー」
大きな声が出る。
ボールはピッチャーの頭を越えてセンター前に転々としている。
ヤクルトのサヨナラ勝ちであった。

彼がいれば、当然二人で乾杯していることだろう。
時計に眼がいく。8時50分、早い終了である。
そして今日もまた彼は来なかった。
(いいわ、怒らないで待ってあげる。でもきっと来てね)
それが何処であろうと、
まず、弱いチームのファンだと言っていた彼の顔が思い浮かんだ。

13

少しずつ立ちこめてくる紫色の霧の中に、四つの人影があった。
朧に映る人影の一人は、その体つきから女のようである。
やがて霧が薄れはじめ、それぞれの輪郭がはっきりしてくる。
紫色に染まった男三人は、
身体にぴったり張り付いたウエットスーツのようなものを着ている。
女はその豊かな肢体を誇示するように、
いや、わざと強調するかのように、
その胸と腰部のほかは何もつけていない。
彼女がゆっくりと歩き回ると、周りの紫色がいちだんと光沢をおびる。
だが、三人の男たちは、そんのことにはまるで関心かないように、
歩いていたり、寝そべっていたり、
自由なポーズで、勝手な方向を向き、
それぞれ、何か物思いにふけっているように見える。

 「エネルギー吸収壁、稼働率70%、
 充填エネルギー120%、余剰エネルギー蓄電中」
 どこからともなく、コンピュータのものらしい無機質な声が流れてくる。
 「ロサンゼルス、シドニー、サンチャゴ教団ビル建築中。
 現在外壁完了。全体完成予定翌年三月」

(順調のようだな)
誰かの思念が言った。
 「リスボン、ケープタウン9月建設開始予定」
(いずれにしても、来年中にはすべて完成というわけだ)
 「第2階梯壁通過者7名」
(ほう、一人だめだったか。たしか8人挑戦したはずだが)
(報告によると力量は十分なのだが、雑念が多すぎるとのことでした)
(雑念ねぇ、恋は盲目というが)
(相手はGOO(グー)とかいう月刊誌の女性記者だそうです)
(教導部がたるんでるんじゃないの。最近のデータを出してちょうだい)
 「最近3ヶ月、第2階梯壁通過者19名、脱落者7名」
(ほらごらんなさい)
(まぁ、そう言うな。特に彼の場合はかなり良い素質を持っているようだから、
きびしく、そして優しく育てるように指示しておいてくれ)

紫色の霧の中に、ぼんやりと白く縦長の崩れた楕円形が見え始める。
4人の顔に始めて表情らしいものが浮かび、
一種共通した緊張感が身体をよぎる。
楕円が密度を増し、形をとりはじめると、
そこには、他のものより、年長らしく見える男が立っている。
紫色の霧の中にあっても、なお真っ白で、
ゆるやかな服装に身を包んだその男が、
ちょうど生き物のようにせり上がってきた床の一部分に、
いとも自然に腰をおろすと、
めいめい勝手な位置にいた4人がその周りに集まってくる。

 14

「それでは始めようか」
どうやら5人は、これから何かの話し合いをするらしい。
四つの顔が年長の男の方へ集注する。
「諸君も知ってのとおり、教団はこのビルを建てるにあたって
X,Y,Zの三つの計画を企画し、
最初にX,Yの二つを実行に移すことを目的としている。
今、この東京ビルが完成するに及んで、まずX計画を実行しなければならない」
「精神的、心理的下準備はすでにできております。
あとは具体的に詰めていくことになります」
紫の男の一人が、自信にみちた声で言った。

「では、まず実施時期について」
「太平洋側の4都市のビル完成を待って、来年3月からにしてはいかがでしょうか。
やはり各地とも歩調を揃えて行うのが良策だと思います」
「いや、それは目立ちすぎます。多少時期をずらして行うべきではないでしょうか」
「しかし、この種のビルが建っただけでも目立っているのだし、
特にこだわることはないと思います」
「他に異議がなければ、X計画は来年3月から実施することにする」
白の男はいったん言葉を切って、次をうながした。

「・・・では方法について」
「各地方に4人の赤(レッド)クラスをつけた緑(グリーン)クラスを派遣して、、、」
いつの間にか5人の会議から言葉というものが失われていた。
静かに瞑想している姿からは、一切の感情変化はみられない。
白の男を除いた4人の身体をつつんでいる紫色の霧が
時々光を増すのがわかる。

白の男が立ち上がる。
今まで彼が腰掛けていた椅子が自然に下に吸い込まれ、
平坦な床の一部と化す。
現れた時と同様、彼の姿は、
見ている間に霧の中に溶け込んでいった。

 15

 「戒律違反者橙(オレンジ)クラスNO63、行動追跡中」
 コンピュータの声がうつろに響く。
「やはり手を打ちましょう」
瞬間一人の思念が飛んだ。
(大げさにしなくてもいいだろう。たかがゲームじゃないか)
「しかし、ちょpっと派手すぎます。このままだと疑惑を呼ぶことは必定でしょう。
現にマスコミが動きはじめました」
(馬鹿なやつだ、ちょっとした力に増長して、それを金のために使うとは)
「実際貧しいのよ。GNP第1位だなんて言ってるけど、
庶民には何の潤いもプラスされないじゃない。
それどころか、生活は苦しくなる一方ときてるんだから」
(まあ、判事にしろ教師にしろ、自分の生活が苦しくては、
心から人のことを考える余裕も出てこないだろうな)

 彼らの話し合いは、一般の人たちにはどう映るであろうか。
 声に出したり、沈黙したりして、
 交わされている内容はまったくつかめないに違いない。
 今テレパシーを交えて会話している彼らには、
 いったいどのような力が秘められているのであろう。

”天の羽衣教団”アジア支部、
導師、紫(ヴァイオレット)クラスNO1,2,3,4である。

 「戒律違反者橙クラスNO63、今週土曜日東京ドームで、代打予定」
(やはり、黙っているわけにはいくまい)
「消すか!」
(そこまでやる必要もあるまいよ)
「自然な形で、引退させるようにすればいいのよ、で、誰がやるの?」
「わたしがやりましょう」
しばらくの沈黙の後、4人は、それぞれ恣意の動きに戻り始める。
一段と濃度を増した霧の中に彼らの影が煙っている。
 
 「戒律違反者橙(オレンジ)クラスNO63、追跡調査終了」
 コンピュータの声も心なしか、煙ってきこえる。

東京教団ビル60階、午後4時であった。

16

土曜日。
槙原恂子と林理佳は、巨人ヤクルト観戦のため、水道橋に下りた。
”天の羽衣教団”ビルは今日も光と闇のコントラストを見せて、
左手の東京ドームに対して、ひときわ高く周りを睥睨している。

試合開始にはまだ時間があったので、恂子は理佳を教団ビルに誘った。
「すごく豪華って感じね」
初めての理佳は
吹き抜けの高い天井からつり下げられた
シャンデリアと噴水に見とれている。

1段ずつゆっくりカーブした階段を上りきると、奥に喫茶「羽衣」がある。
二重の自動ドアで区切られて、外から内部は見えない。
中に入って二人はしゃれた籐の椅子にくつろいだ。
小柄な愛くるしい顔のウェィトレスが近寄ってきて注文を訊く。
「野菜サンドと紅茶を」
恂子が言うと理佳が指を2本立てる。
「紅茶を何になさいますか」
「そう、羽衣を」
「かしこまりました」
膝を少し曲げ、にっこりと頭を下げて愛くるしさが去っていく。
(思わず言っていまったけど、たしかメニューには、
紅茶としかなかったはずだわ。
レモンかミルクかということだったのかしら。
でも、羽衣と言ったら、ちゃんと話が通じた・・・)

運ばれてきた紅茶を一口含むと、
懐かしい、しびれるような感覚が蘇った。
あの日3階で出されたものと同じ味であった。
理佳も気に入ったらしく、これから見に行く試合の予想や、
代打率10割の新人大内の話で弾んだ一時が過ぎていく。

”羽衣”を出ると、目の前を二人の男が通り過ぎていった。
「恂子の分900円・・・」
理佳が手を出した。
恂子は歩きながら千円札を取り出して理佳に渡そうと振り返った時。
「あっ!」小さく叫んでいた。
下への階段に気づかず、一段踏み外したのである。
膝に鈍い衝撃を感じた。
同時に身体が前方に飛び出して、持っていた千円札が宙に舞った。

「大丈夫ですか?」
気がつくと恂子は男の腕の中にいた。
どうやらこの男に支えられて大事には至らなかったようである。
男はゆっくり恂子を立たせ、顔を覗いて
「おけがは・・・」
 
 一瞬恂子は男の黒い瞳の中に吸い込まれるのではないかと思った。
 その瞳は茫洋として、どこまでも奥が深く、無限の広がりを感じさせた。
 それはまるで海を思わせた。エメラルドグリーンの南の海である。
 そして恂子は、その瞳の中に白い風波がたつのを見た。

「すみませんでした。なんともありませんわ」
やっと小さな声が出た。
もう一人の男が下に落ちた千円札を拾って手渡すと、
二人は足早に階段をおりていった。
恂子をささえてくれた男は、やせ形で背丈があり、
もう一人は中背のやや肥満体であった。
「恂子、大丈夫?」
理佳に言われて、恂子は我に返ったように大きく息をはき出した。

 17

素振りを終えてベンチへの通路に出てきた大内は、
病の床にある母のことを思っていた。
「せいぜい3ヶ月です」と医者に宣告されたとき、
残されたその期間だけでも、
いままで出来なかった親孝行をしてやらねばと決めていた。
自分がしていることは、戒律違反にちがいない。
しかし母のためには、
たとえどんな制裁を受けようと、打たねばならない。
母が安らかな時を迎えるまでは、やめるわけにはいかないのだ。

 大内は片手にバットをきつく握りしめて、ベンチへの扉を開いた。
 歓声が耳に飛び込む。一塁に草水をおいて、
 1番木谷がレフトフェンスをワンバウンドで越える
 エンタイトル・ツウベースを放ったのである。
 「大内、出番だ、いけ!」
 監督が怒鳴った。

「9回表ヤクルト最後の攻撃得点2対1.巨人1点リード。
2アウトながらランナー2,3累であります。
「イヤー、江畑さん出てきましたよ大内が。ここで、敬遠ということはありますか」
「次が池田、弘沼となれば、それはないでしょう」
「もし今日打ちますと、
15打席14安打1、四球の代打率十割をキープすることになります大内。
ゆっくりと右バッターボックスに入りました。
心なしか青ざめているようにみえますね。江畑さん」
アナも興奮気味である。

スタンドで観戦しながら、
小型ラジオで実況放送をきいている恂子と理佳にも
その興奮が伝わってくる。
「恂子。あれが今話題の大内よ」
「フーンかっこいいわね。打つかしら」
「もちろん打つわよ」

ピッチャー清藤、第1珠、外角の速球、ストライク。
第2球、同じ所へストーンと落ちるカーブで、2ストライク。
「清藤、キャッチャー田村のサインにうなずいて第3球、投げました。
外角高めのボールであります」
アナの早口がきこえてくる。
大内はバーッターボックスに根が生えたように動かない。
一球一球に観客のため息がきこえる。
清藤、第4球、外角のカーブ、はずれてツウツウ。
大内は一度ボックスをはずして、やおら入り直した。
「今度は内角ね」
「打つかしら」
「きっと打つわよ」
清藤、第5球。セットポジションからサードへ緩い牽制球。
あらためてサインにうなずく。

 18

 大内には分かっていた。
 今のサインは外角低めの速球である。
 そればかりか、ライト前に落とすのが一番力のいらない方法であり、
 そのためには、どんな角度でバットを出せばよいのかに至るまで、
 頭の中に、はっきりと描かれていた。

清藤、ゆっくりとセットポジション。
「投げました!」
アナが叫んだ。

 球が妙にゆっくりした感じで来た。思ったとおりの軌道である。
 大内は左足を軽くステップして、右にひねり、なめらかにバットを出す。
 次の瞬間彼の顔は驚愕にゆがんだ。
 外角低めに来たはずのボールが、
 ホームベース直前で、シュートすると同時にホップして、
 右を狙って捻った大内の左上腕部を襲った。
 さける余裕はない。
 「・・・・・」
 大内は自分だけにしか分からない、
 骨の折れる音と、望みの絶たれる音を同時に聴いた。

ドーム内は水を打ったように静まりかえった。
バッターボックスには右手にバットを持ったまま、
左手をだらりと下げた大内が立っている。
足下に落ちている、ボールの白さがやけに目に付く。
代走が告げられ、
大内は何人かに囲まれるようにしてベンチの奥へ消えていった。

「大事なければいいにですが。
えーその後の情報は後ほどお伝えすることにしまして、
満塁になりましたね、江畑さん」
アナが続行するゲームのほうに戻った。
観客は大内のことが気になりながらも
当面2アウト満塁の方に心を引きつけられていった。

恂子はもう一度大内の消えて行ったベンチのほうへ目を向けた。
ちょうでその時、ベンチの屋根の3,4段後ろの席から
男が一人立ち上がるのが見え、特に目立った。
男はグラウンドに注目している観客をかき分けるようにして、
通路に出ると、足早に出口へ向かって行く。
遠くてはっきりしなかったが、
恂子は、その太った体型の男を、何処かで見たような気がした。

 結局大内は左上腕部骨折、
 全治三ヶ月の重傷で、一軍登録を抹消された。
 そのためばかりではないだろうが、
 ヤクルトはずるずると調子を崩し、念願のAクラス入りはならなかった。
 一時はあれほど騒がれ、
 毎日のように新聞紙上を賑わした大内の存在もまた、
 いつしか忘れ去られていった。

”天の羽衣教団”は、ビルの完成後、
着々と信者を増やしているようだったが、
表面的にはまったく沈黙を守っていた。

恂子は相変わらず理佳と二人、
ワインとステーキで話に花を咲かせ、
GOOの編集部も、
日常の繰り返しの中で、すっかり埋没してしまったかのようにみえた。
そして年は暮れていった。

(出逢いへ続く)