覚醒

6,覚醒

4月に入って、曲助教授の予想したとうり、海底火山の噴火が続いた。
1日には、ニュージーランド北方のケルマディック諸島で2ヶ所、
1日おいて、3日には、ハワイ島南方で2ヶ所、
それぞれ数時間の間隔で噴火した。
時を同じくするように、東太平洋の島々に大雨が降り続け、
ワシントン島、ファニング島、クリスマス島では、
海面水位の上昇と相まって浸水騒ぎが起こった。

一方、集団自殺はその後も跡を絶たず、
金華山、石廊崎で、数十人のぼる投身者がでたという情報がはいっていた。
もちろん、その情報は政治的に封鎖されており、
一般の間ではまだ問題になっていないが、
この3月から4月にかけて世界的な規模で行われているという。
それらはすべて太平洋側の国々であり、
自殺のスタイルも酷似しているということであった。

また、3月下旬頃から、ローティーンの誘拐事件が頻発し、
4月に入ってすでに9人を数えていた。
幼児ではないのだから、
ただ、甘い言葉や、美味しいもので連れ去られる訳ではないだろうし、
9人が9人とも帰ってこないというのも、今までに例をみないことであった。

そして槙原恂子の勤める月刊GOOの編集部にも変化が起きていた。
林理佳が社を辞めるという。
彼女は3月に3日ほど休暇をとって、彼と旅行してきたはずだった。
(南紀とかいったわね)
彼女が辞めるとすれば、彼との結婚にちがいない。
1年待ってくれ、といわれていると、話していたのを思い出す。
話が順調に進んで予定より早くなったのだろう。
理佳は今朝からずっと外回りに出ている。
出際に恂子に「今日帰ったら付き合ってね」と言っていた。
(結婚の話にちがいないわ)
よし、今日は彼のことを全部白状させてやる。
特に3月の南紀旅行のことは、詳しく訊きだしてやる。
恂子はそんなことを考えながら書きかけの原稿にとりかかった。

 後ろのドアが勢いよく開いて、
 会議室からスポーツ娯楽担当のスタッフがドヤドヤと出てきた。
 「オイ、お前も出てみたらどうだい」
 「バカ、企画するほうがそんなことをしたら、1回目からお流れだよ」
 「んでも、お前が出れば、優勝賞金100万円も夢じゃあないぜ」
 どうやら今年から開始される、月刊GOO主催の”雀聖戦”の話らしい。
 「しかし、第1次予選を、横浜に停泊中のクイーンエリザベス号に、
 雀卓をならべてやろうってアイディアは、ちょっとしたもんだな」
 「最初は大きく花火をあげなきゃね。
 話題になって人が集まりゃしめたもんよ」
 相変わらず辺りをはばからない大声である。

ようやく強さを増してきた午後の陽射しを背に、
編集長の岡田は沈思黙考の態で、
紫煙だけが、彼の思考にうなずくように左右にゆれている。

2時間後、恂子は理佳と二人”近鉄”にいた。
ワインがくると、理佳が小声で言った。
「私のために乾杯してね」
「「乾杯!」
二人の合わせたグラスが澄んだ音をだした。
一つ目は(おめでとう)二つ目は(ありがとう)
なんにも言わないのに二人には分かっていた。
心が通じ合っているという充実感に胸が膨らむ。

「それで、彼なんていったの」
「ん?・・・」
「プロポーズの言葉よ」
理佳は乾杯で残ったワインを一息で飲み干して
「最初、私のことを考えると仕事がうまくいかなかったって。
でも、今は逆に力がわき上がってくるって」
「フーン」
「私が必要だって言ったわ」
理佳の上気した頬は、ワインのせいばかりではない。
恂子は、理佳の、こんな女らしい表情を見たことがなかった。
(女って変わるのね・・・)
「すばらしいわ」
「1年待ってくれって言ったけど、
もう彼は十分私を幸せにできる男になったからって言うのよ。
どうゆう意味かしらね」
ウフフ・・・と理佳が口元をほころばせる。

いつものスーパーミディアムがきた。
一口手をつけたものの、二人とも胸がいっぱいで、
すぐにフォークを置いた。
「3月の旅行の時でしょう」
「そう、串本から大島へ渡ったわ。目の前は太平洋よ。
薄明かりの中に突然光の矢が飛んだわ」
「えっ?」
「そしてそれは、無数の光の流れとなって氾濫し、
私たちをとらえ、満たしたわ」
「ああ、日の出ね」
「彼は片手で私の肩を抱きながら、太陽を指して言ったのよ」
「結婚してくれって!」
「うううん、ボクはあそこへ行くんだって」
「フーン」
「ボクの故郷へ行くんだって」
「故郷?」
「長い間、心の片隅に追いやられ、忘れ去られていた故郷へ、
光に満ち、悪の影さえない国へ、君と一緒に行きたいって・・・」
いつの間仁か、理佳の言い方が直接話法になっていた。

 彼にそう言われたとき、
 理佳は、彼の体内から以前には感じたことのない
 強いエネルギーの放出を受け、
 ほとんど倒れそうになって、彼の胸にしがみついた。
 「一緒にきてくれるね」
 「ええ・・・」
 返事の後半は彼によって唇をふさがれていた。

二人の姿は輝く光を受けて、
新鮮な払暁の大気のフィルムに一点となって定着した。

「先輩どうしたんですか」
恂子に言われて、理佳は現実に返った。
あの時の彼との光景を思い浮かべると、
理佳は、ほんのすこしだけれど、放心状態になるらしい。
「ごめん、何でもないのよ。
そんなわけで、あっという間に決まってしまったのよ」
「で、式はいつなの」
「6月だって」
「ジューンブライドね」
「普通と違って、彼の会社の方式でやるんだって。
だから全部まかせてくれって。
君は身一つで来ればいいって言うのよ」
「フーンいいなぁ」
恂子は心からそう思った。
「もう編集長には話してあるけど、5月いっぱいで社を辞めるわ」

いつの間にかマスターが寄ってきて二人にワインをついだ。
彼がこんなことをするのは初めてなので、びっくりする。
「聞きましたよ、おめでとう。編集部も寂しくなりますね」
いったん言葉を切ったマスターは、
真顔になって少し迷っているふうである。
二人にもう一度ワインをついで、
「月刊GOOでは、最近の社会異常についても、
取り扱ってるってことでしたが・・・実はうちの息子がね・・・
いやこれが親に似ず勉強の虫で、
今年T大とかってところに入っちまったんですがね・・・」
マスターの言葉がまた切れた。
「どしたのよ、マスター」
理佳が怪訝そうにうながした。
「ええ、実は行方不明になっちまったんですよ」
「えっ、うそでしょう」
「もう1週間になるんです」
「家出ですか・・・何かあったんでしょうけど、すぐに帰って来ますよ」
「そんならいいんですがね。最近若い者の蒸発が多いもんでね・・・
ああ、どうもすいません。せっかくの所をお邪魔しちゃって・・・」
マスターは語尾を残して奥へ引っ込んで行った。

恂子と理佳は顔を見合わせた。
たしかに若年層の蒸発や誘拐が多発していた。
月刊GOOでも、そのことについて特集を組んでいたし、
テレビや新聞にも、その種のニュースが絶えない。
「最近の誘拐事件では、まだ一人も戻ってきた人はいないわね」
いきおい声をひそめる。
「そうねェ」
「例の集団自殺にしたって、まだ続いているらしいし・・・」
恂子は途中で言葉を飲み込んだ。
理佳があまり乗り気でない風である。
せっかく結婚の話で盛り上がっていたのに、
腰を折られてしまったのだ。
「先輩、もう一軒行きましょうよ」
恂子は調子を変えて言ったが、理佳は首を振った。
「今日はこれで帰るわ」

以前にもこれと同じ場面があった。
あの時の理佳は、
今日は彼が来るかも知れないと言いながらも、
どこか、不安そうであった。
しかし今は違う。すっかり落ち着いている。
理佳が恂子を誘ったのは、
友人として、結婚のこと、退職のことを告げるためであったろう。
その目的が達成された今、
理佳は早く帰って彼を待ちたかったのかもしれない。
いや何処かで、待ち合わせる約束になっていたのかも知れない。

”近鉄”を出て一人になると、
恂子は、前に理佳に言われたことを思い出した。
ボーイフレンドなんか何人いたって、楽しいだけで幸福ではないと。
(楽しいと幸福は違うのね)
職場では、個人的な事情で流されるような理佳ではなかったが、
彼女はこの1年のうちに、大きく変わっている。
自分の生きる道を見つけたのだ。
それは、女性として目覚めたということだろうか。
結婚して子どもを産んで・・・
つまり、女性としての機能を全開できるようになって、
はじめて真の幸福を知るのであろうか。
恂子の脳裏に阿井の姿が浮かんで消えた。

神によって与えられ、本来誰でも持っている機能を、
人間はどれだけ活用しているであろう。
何の為にあるのかさえ分からないままに、
退化させてしまった器官が、たくさんあるのではないか。
石器に始まり、つねに道具を用いることによって発展してきた人間は、
望遠鏡を作り、電話を発明し、蒸気機関をつくって
時間と空間をどんどん縮めてきた。
自らの内なる器官を使うことなく、
種々の目的を、かなえることが出来るようになり、
今、宇宙へと一歩を踏み出そうとしている。

 <目が外へ外へと向かっていくのですね、Kさん>
 <ええ・・・>
 <もっと身近で、もっと大切なものが、どんどん失われていきます>
 <そんなものでしょう>
 <もっと人間自身をみつめなければいけませんね>
 <むずかしいでしょうね>
 <たしかに、根気強い努力が必要でしょうが、
   不可能ということはないでしょう>
 <そうですね>

不可能ではない。
なぜなら、かつて人間そのものを深く見つめ、
その機能を十分に活用出来た者たちちがいたからだ。
そこには、なまさかの機械など、まったく不要であった。
人間はそれぞれ”個”であり、同時にまた”全”であった。

”超能力・・・”
現代人は言う。
だが、かつてこのソル系第3惑星にやってきた種族にとっては、
ごく普通のことであった。
そして、”天の羽衣教団”をめぐる出来事には、
彼らが深く関係しているに違いないのである。

世界的規模で発生していた集団自殺も、ようやく下火になり、
一時あれほどテレビを賑わした海底火山の話題も
忘れかけようとしている頃、
編集部では、5月いっぱいで退職する理佳のために、
送別会と結婚を祝う会を兼ねて行うことになった。
恂子は定刻少し前に地下街の会場に着いた。
早々に来た連中は、もうジョッキを傾けている。
理佳がアイボリーホワイトのワンピースに、
左手の薬指の輝きを隠すようにしながら上座についた。
幹事の挨拶の後、岡田が立ち上がった。

「会うことは別れの始まりというが、
それは、別れることによってはじめて
新しい出会いが生まれるということである。
我々はかつてたくさんの出会いと別れを繰り返してきた。
それは、人間の歴史といってもよいであろう。
だがそれは、一つの過程にすぎないような気がするのだ。
いずれ我々は、今までの常識を超えた
新しい出会いと別れを経験することになるのではないか・・・」

岡田の話が続く。
理佳はすこし俯いて聞いている。
日頃うるさい連中も、かしこまって聞いている。
恂子の心に岡田の言葉が、細かい粒子となって降り積もっていった。

「・・・そして我々は再び理佳に出会うことになるだろう。
その時も、今と同じ気持ちで、
その新しい出会いに臨めるようにしたいものである」

いつになく長い岡田の話が終わった。
記念品贈呈の後、デスクの山崎の音頭で乾杯があり、
あとは、お定まりの宴が進んでいく。
反対側の末席で良ちゃんがむっつり飲んでいる。
恂子の前にスポーツ関係担当の二人がやってきて、話しかけてきた。
「恂子、お前はまだか」
「早く見つけろよ」
「なんなら世話しようか」
「それとも、誰かいるのか」
さらに、いつも向かいの席から誘いをかけてくる男が割り込んできて、
恋愛論から結婚論へと発展していく。
それぞれが自説を述べ、
そのたびに恂子はどう思うかと問われるのが、
だんだん苦痛になってきて席をはずした。

時間をつぶして戻っても、
恂子のいない席を囲んで、まだ議論が続いている。
恂子は、さっきから気になっていた良ちゃんの席へ行く。
彼の周囲はまるで、壁でもできているかのように、
人を寄せ付けない雰囲気があった。

「どうしたの」
ビールを注ぐ。
良ちゃんは、それを一気に飲み干して、ポツリと言った。
「恂子、お前好きな人ができたな」

恂子は自分で自分の気持ちを計りかねていた。
たしかに阿井に激しく会いたいと思ったりもするが、
会って何をしたいというわけではない。
しかし、こうして良ちゃんに言われてみると、
やっぱり彼を好きなのかと納得するところがある。

恂子は空になった良ちゃんのグラスにもう一杯つぎながら言った。
「良ちゃんはどうなの」

今までの恂子なら、
良ちゃんの疑問に直接答えるようなことを言ったかも知れない。
だが、今日はその答えを別な方向にずらしている。
もちろん自分の気持ちがはっきりしないせいでもあるが、
物事は、そう短絡的にはいかないことに気づき始めている。

(これからは、以前と違ったあなたになるかもしれませんよ)
阿井の言葉が甦った。
この頃は、何かあるごとに阿井の言葉を思い出す。
それが、不思議なほど生活の中でぶつかることと関連していて、
恂子は、自然に阿井への思いにふけってしまうのだった。
そんなの気持ちが顔や姿に表れて、
プロのカメラマンの目には分かってしまうのかも知れない。

良ちゃんは二杯目も一息に飲み干し、
もう一杯注げというように、グラスを突き出しながら言った。
「いいんだよ、無理に言わなくたって」
良ちゃんは悟ったような言い方で、じっと恂子の目を見る。
「ようよう、お二人さん。
見つめ合ったりしちゃってさ、妬けるじゃないか」
一人が割り込んできて、
たちまち見つめ合い方第1条、第2条と語り始めた。
良ちゃんが露骨にいやな顔をする。

酒席というものは
どんな理由で開かれたにしても、
やがて、本来の目的から遠ざかっていくものなのである。

怐子は、ようやく理佳の前へ行って、ビールを持ち上げた。
「終わったらコーヒーでも飲もうか」
目の前にある満杯の2つのグラスに、
手で蓋をするようにして、理佳が誘った。

終わりに理佳の謝辞があり、締めの乾杯がそれに続いた。
いつも間にか良ちゃんの姿が見えなくなっている。
岡田が理佳に一言二言声をかけて席を立った。
理佳は怐子に軽くウインクしてから、
元気でなとか、幸せになれよとか言われながら
みんなに見送られて出て行った。

怐子は、何人かに誘われたのを断って、理佳のあとを追う。
地上に出て20メートルほど先をゆっくり歩いている理佳に並んだ。
「”未完成”にいこう」
理佳が言った。
「今日は彼と逢わないの?」
「センチュリー・ハイアットのロビーよ」
「フーン、いいなぁ」
「怐子、お前だって好きな人ができたんだろう」
理佳が突然男言葉で、良ちゃんと同じことを言った。
「はっきり、わかんないのよ」
「はじめはみんなそうさ。
気がついた時には、もうまっただ中なんだから」
「でも先輩、まだ相手が、どう思っているかわかんないんだもの」
怐子は、理佳の腕にぶらさがるようにしてあまえる。
「いいのよそれで、自分が好きだったら・・・
そう、女には二つのタイプがあるみたいね。
自分が好きにならないと絶対ダメというのと、
そんなに好きというわけではないけど、
押しに押されると、ついほだされてしまうタイプよ」

(阿井さんなら、何と言うかしら・・・)
たしか彼は、
人は刹那刹那の時間の点滅のなかに生きていると言っていた。
その度ごとに生まれ、死んでいると言っていた。
(愛もそうかしら・・・)
次第に思いが阿井のほうへ傾いていく。
理佳もまた、これから逢う男のことを考えている。
二人は今、それぞれ異なることを考えていながら、
互いに連帯感の中にいた。

10

「あれっ、休みだわ」
「定休日じゃなかったはずよね」
純喫茶”未完成”の扉は、
この二人が一緒では入れませんよ、とでもいうように、
しっかり閉じていた。
「運命やなあ」
岡田のまねが出る。
「そうやなあ」
思わず怐子も返していた。
「じゃぁ怐子、あまり時間がないから、
センチュリー・ハイアットへ行こうか」
「でも彼が来るんでしょう」
「うん、この機会に紹介するわ」
「でも・・・」
「”未完成”が閉まっていたのも運命や。
だから、紹介することになるのも、運命やで」
怐子は何故か理佳の彼に会いたくなかった。
「二人のお邪魔はしたくないし、・・・
それに少し一人で歩いてみたいから・・・
先輩、今日はこれで失礼します」

怐子は身をひるがえしながら、
いつも理佳にこうされていたっけ、と思った。
今日は自分の方から別れてきた。
理佳と一緒の時間を、あと5分、10分と引き延ばしても
どうなるものでもないような気がしていた。
怐子は最近その時々の感情の振幅が激しくなっていた。
自分を取り巻く様々なことに、敏感になっているからかも知れない。
心の支えらしきものが見えてきたのに、
それが安定したものにならない動揺からであろうか。

 彼女の様々な感情の動きを示す棒グラフが
 激しく伸び縮みしている。
 グラフの下方には、その時点時点で変化する、
 棒グラフ全体の面積がデジタル表示されている。

 <どうなりますかね、Kさん>
 <・・・・・・・>
 <覚醒への灯火がともりますか>
 <近いようですね>

11

槙原恂子は東口をぬけて、ゆっくり歌舞伎町へ向かっていた。
相変わらず、人また人である。
信号を渡って新宿コマのほうへ、、
人波に押し流されるようにして歩いて行く。
(理佳は彼と逢ってるかな)
(良ちゃんはどうして早く帰ったのかしら)
(編集長は挨拶で、何を言いたかったのだろう)
思考の断片が頭をよぎる。
(阿井さんは、どうしているかしら)
いつの間にか
心のの中に住みついてしまった人のことに思いが至って、
恂子の思考が停止した。

何度か会いたいと思ったが、
何故か、彼に悪いような気がして、
教団に連絡する気にはなれなかった。
それにどんなに気持ちが沈んでいる時でも、
ペンダントに触れると落ち着いてくるのだった。
だが、今日はちがう。
「好きなひとができたんだろう」と良ちゃんや理佳に見抜かれ、
また、これからホテルのロビーで逢うという、
二人のことも、刺激になっていた。
(会いたい!)
恂子は心からそう思った。
右手の指でペンダントをはさむ。
胸の中心が熱くなり、塊となってせり上がってくる。

 まっすぐ前を見て歩いている恂子は気がつかなかったが、
 ペンダントの金属片がかすかに発光して、
 その光は彼女の指先をやわらかく包んでいた。
 道行く人たちが、不思議そうに彼女の胸元に視線を送っている。

恂子は熱い胸をかかえ、人波からはずれて、大通りを右へ曲がった。
”アマランサス”と書いてあるはずの、暗くぼんやりとした看板が出ている。
恂子は、ためらわず階段を下りて扉を押した。

「いらっしゃませ」
黒服が寄ってきて頭を下げる。
会釈を返し、なにかに誘われるようにして、 奥へ進んでいく。
正面の壁が音もなく左右に開いた。
蝶の壁画が迫ってくる。
壁画の蝶が恂子を迎えて喜こび、
彼女の後ろについてくるような感じがした。

12

第3の扉が開いた。
懐かしい赤い花の世界が広がっている。
中央の発光する柱の光が噴水に溶け込み、
上部の夜空には、今夜も星が輝いていた。
かなりの客がボックスにいる。
この前流れていた、東洋的なBGMはきこえない。
カウンターに座ると、例の赤い酒がでてきた。
飲む前から、頭の中に、
弱音の弦のトレモロがきこえるような気がする。

「いらっさいませ」
先日の女性が近づいてきて声をかけた。
「この店をあずかっている洋子でございます。
もうすぐ阿井さんもみえますわよ」
隣に座って恂子の顔をのぞき込んだ。
「何を考えていらっしゃるの」
「ええ、前とちがって、あまりにもスムーズに入れたものですから・・・」
「きっとそれのせいですわ」
洋子は微笑みながらの恂子の胸を指した。
「えっ、これですか」
「阿井さんがわたしたのでしょう」
洋子はいたずらっぽい目になる。
「ええ・・・」
「このペンダントは、ここの会員証のマークをふくんでいるんです。
それにこの金属は・・・」
あとは何を言っているのか恂子には分からなかったが、
洋子は一人で納得しているようだった。
「このペンダントに、特別な仕掛けでもあるのでしょうか」
「そうよ、それに反応して扉が開いたのです。
阿井さんは、あなたがおいでの時に入れるように、
心をくばっておいたのでしょう」
阿井は、恂子がまた来ることを予測していたのだ。
どんなに長い間離れていても、
きっとまたここで、恂子と会えることを確信していたに違いない。

 恂子は、あらためてペンダントを持ち上げてみた。
 そういえば、入り口の扉についていた、
 太陽のレリーフに似ている。
 じっと見つめていると図形がぼやけ、
 想念のような、あいまいなものを感じる。

いつの間にか店内には、ギターのトレモロが流れていた。
「あら、お見えになったみたいよ」
洋子が立ち上がった。

13

広く美しい内海であった。
大小の島々が浮かび、
それぞれが、様々な彫刻を施した石製の橋で繋がれていた。
岸から離れて壮麗な神殿が建ち、
そこまでは、広い水路とその両側に並行する石の道が続いていた。
高い6角の石柱のむこうに見える拝殿には、
壁面にたくさんの図形が描かれ、脇からは、人工の滝が落ちて、
参拝者の小舟が往き来する水路にきらめきを与えていた。
神殿の左右には網の目のように小さな水路が掘られ、
岸辺には、貴金属から日用品にいたるまでの商店が並んで、
おびただしい人々が往来していた。 

”ムー”の首都。
水の都、ヒラニプラであった。

緑の丘をぬって流れる川の澱みには、
蓮が白い花を咲かせ、遠くに神殿が煙っていた。

男が一人佇んで内海を見つめている。
あたり一面に花々が咲き乱れ、色とりどりの大型の蝶が舞っている。

彼は今想っていた。
はるか6000キロの彼方を。
1万3000年の時を超えて出会うであろう女性(ひと)のことを。

 (これでいいのだろうか・・・)
 
 これから相対しなければならないグループの中にいる彼女。
 まだ何も描かれていない、白いカンバスのような彼女。
 自分は初めて会った時から、すでに彼女との運命を朧に観ていた。
 しかし彼女にとって、自分と共に行くことが、
 はたして幸福なのであろうか。
 現在のなかで恋をし、結婚して母になることのほうが、
 彼女にはずっと幸福なのかも知れない。

 (だが、もうスターオリハルコンを渡していまった)
 彼女はきっと”アマランサス”に来るだろう。
 その時はすでに引き返すことができないのだ。

無数の蝶が、男の周辺を舞っている。
男は遠い目で神殿を見ている。
 
 (しかし、自分がどう動こうと、もはや、流れを変えることはできまい)
 とすれば、その流れの中で、どのように生きるかが問題である。
 これから真っ白なカンバスに二人で描いていく絵は、
 お互いにとって最高のものでなければならない。
 いや、そうなるはずである。

男は自分に納得させるように、
大きく息を吸い込み、川に向かって歩き出した。
蝶がそれに反応して複雑な軌跡を描く。
やがて男の姿は、明るい陽光のなかに、ぼやけはじめ、消滅した。
どこかでギターのトレモロが聴こえていた。

14

一面に色とりどりの蝶が氾濫していた。
赤、青、黄色。何千、何万、何億、何兆。
無数の蝶が、地の底から螺旋を描いて天上の高みに吹き上げる。
それぞれ、方向の異なる無数の集団となってねじれ合い、渦を巻く。
そして、その色の竜巻は、一気に一点に収斂し、
その瞬間に無限に拡散して、そのたびに位相を変化させる。

男は今、一頭の蝶になって、流れに身を任せていた。
回転する自我が、ある時点時点で位相の異なる流れに転位していく。

やがて渦がゆるやかになり、次第に蝶の数が減少してついに静止した。
壁画の黒い扉の一つがかすかに発光し、
”アマランサス”の通路に、おぼろげな男の姿が実体化した。

15

扉が開いて阿井真舜の長身が階段を下りてきた。
恂子は思わず立ち上がっている。
どうゆうわけか、阿井の姿が光の中ににじんでいた。

「やはりここにいましたね」
「・・・・・」
何も言えない。
阿井は、恂子の肩にかるく手を置いてカウンターに座らせ、
自分は彼女の右側に腰を下ろした。
バーテンがひっそりと寄ってきて、赤い酒を出す。
阿井は恂子のグラスに、おかわりを頼む。

 恂子は阿井が自分の胸を見ているのを意識していた。
 いや、正確には胸のペンダントを見ている。
 見つめられると、その一点から身体が熱くなっていく。
 ほてりは恂子の全身に広がり、彼のそばで次第に鎮まってくるようだった。
 今まで会えなくて悩んだことも、仕事がうまく行かなかったことも、
 多忙で体調を崩していたことも、
 すべてが同時に吹き抜けていった。
 全身が、心の中までも、きれいに洗われていくように感じていた。

恂子はただそこにいた。
赤子のような無垢な気持ちで、座っていた。
阿井が無言でグラスを上げ、恂子がそれにならう。
二つのグラスが恥ずかしそうな小さな音をたてた。
ママの洋子はもういない。
阿井が現れた時から静かに鳴っていた、ギターのトレモロが、
さざ波のように耳朶をくすぐる。
「あれをごらんなさい」
恂子は阿井の指先を追った。夜空に星が輝いている。
阿井の指が一点を指した。
どうゆうわけか、そのあたりだけがズームし、拡大される。
そこには、何個かの星が、重なり合うように固まっている。
恂子も知っている、有名な星である。
「スバッル・・・」
素直に声がでた。
「そうです。アトラスの娘たちの星です」
阿井は静かに赤い酒を飲み干して続けた。
「今日から六日間は”スバルの日”。この店にとっても大切な日なのです。
もう、常連がだいぶ集まっています。
私をふくめて
彼らはどんなに遠くにいても必ず一度は”スバルの日”にやってくるのです。
「スバルの日・・・でもどうして・・・」
「それは今にわかりますよ」
阿井はバーテンが出してきた黒いボトルから淡い緑色の液体をついで、
いたわるように恂子”を見た。

16

「ほら、今入ってきたのが、民友党の次期総裁候補といわれている、太田黒源一郎です。
あっちのボックスで話し込んでいるのは、六星グループの総師と経団連の大者たちです。
カウンターの一番奥で、空を見ては何か手帳に書き込んでいる人、ご存知でしょう。
今売り出し中の易者で小説家の夢道人です」
店内には、そのほかに学者や芸術家、有名タレントに混じって、
みすぼらしい服装の得体の知れない連中もいる。
それぞれの人たちは、店に入って来ると、必ずカウンターにいる阿井に会釈して通る。
みな無言ではあるが、親愛の情がにじみ出ている。
白服のボーイが忙しそうに動き回り、
どこからともなく南国の民族衣装を身につけた女性たちが現れる。

ギターのトレモロが止み、店内が急速に暗くなっていった。
スバルが光を増しながら近づいて、6個の大きな青白い光と、
それを取り囲むように散っている10数個のかすんだ光がドーム一杯に広がった。
みんなじっと見上げている。
口を開く者はいない。
恂子にはそれが、スバルへ向かって願い事をしているように思われた。
1分ほども過ぎたであろうか。
全店をおおっていた星団は徐々に後退し、やがて星々のなかの一つになってしまう。
店内に明かりがもどり、東洋的な断片のBGMが流れ始める。
入って来た時は、一様に疲れた表情をしていた客たちが
今は生き生きと甦っているように見える。
「皆さん、星を仰いで何をなさっていたのでしょう」
「別に何もしていませんよ。ただ、あそこへ行きたいと願っているのです」
「スバルへ・・・」
唐突で、非現実的な言葉にも恂子は疑問を挟まない。
阿井がそう言うのなら、そうなのだろう。
それが、この人たちの集まってくる理由なのだろう。

「何か話したいことがあったのではありませんか」
阿井は正面の棚に置かれた世界各国のボトルの方に目を向けたまま、、
手に持ったグラスを軽く振った。

17

阿井の手元を見つめながら、
恂子はさっき別れたばかりの、理佳との話を思い出した。

「自分が本当の好きだったら、
相手がどう思っていようと、かまわないのでしょうか」
突然の質問にも、阿井は驚いた風もなく、

「相手がどう思っていようと、ということには、2種類あります。
自分が好きであれば、どんどんそれを表現していくタイプと、
まったく表面に出さないタイプです。
前者は自分勝手になりがちで、
知らず知らずのうちに押しつけになっていきます。
後者は、どこまでも自分のインナースペースを広げていき、
その膨張に耐えきれず破滅していく人と、
それを別のエネルギーに転換していく人とに分かれるでしょう」

「でも、ほんとうに相手のことを考えるなら、
一方的に自己表現するのは行き過ぎだといい、
逆に表現をしないのは非現実的で、本当の愛ではないとも言います。
それに、愛は与えるものだという人と、奪うものだという人がいるのです。
最近はそのどちらにも当てはまらないような気がして、
ほんとうに分からなくなってしまいます」

恂子は、日常のなかで、なんとなく疑問に思っていながら、
そのまま忘れてしまっているような事を口にしていた。

「迷うことはありません。
それぞれの人がそれぞれの経験から愛の形を語っているのですから、
みんなが違うのが当然ですし、
あなたが、そのうちの、どれにも当てはまらなくてもいいのです。
いや、それこそが、すばらしいことなのです・・・」
「そんな心になって、初めて真の愛の形を観ることができるようになり、
同じような人たちと巡り会えるようになるのです」
阿井は正面を向いたまま淡々と語った。

「ほんとうの愛の形というのはどんなものなのでしょうか」
いつの間にか恂子は、何の気負いもなく、彼に質問していた。

「愛には一定の形がないのです。
その意味でいろいろな人たちが語る愛の形は、
すべて正しいと言えるでしょう。
しかし、その不定形であり、どんな形にもなり得るということが、
不幸の始まりにもなるのです」
「不幸の始まり・・・」
「つまり、ある人のある時点の場合のことなのに、
それこそが愛の形だと決めてしまい、
さらに、それが、すべての人に共通するものだと思い込んでしまうのです」
「たしかに、そんな人は多いですわ。
でも、だからといって彼らは不幸だと言えるのでしょうか」
「その人はそれで十分幸福なのです。
自分の生きてきた道を肯定しようとする自衛本能がはたらいて、
自然に美化していく力がプラスされるからです」

18

「井の中の蛙でしょうか」
「そう、でも大海を知ることが単純に幸福とはいえないのです。
それだけ波も荒く風も強くなるからです。
だから、その人は大海に乗り出してもすぐには沈まないような、
大きな船を造っておかなければなりません。
より多くのことを知るということは、
それだけ多くの苦しみも知ることになるのです」
「・・・もっとすばらしい愛の形があることを知らずに、
一生を終わった人たちのほうが、かえって幸せなのかもしれませんわ・・・」

阿井はまた二、三度グラスを振った。
氷のふれあう、かすかな音と共に淡い緑色の液体が光を反射し、
彼は初めて恂子の方を向いた。

「無限にきらめき変化していく愛を、そのまま感じることが大切です。
何かにこだわってはいけません。ただあるがままに観るのです。
そのためには、今のあなたのように、自然な心になることが大切です。
愛のための技術は障害になるばかりでしょう」

恂子もストゥールを阿井の方に向けていた。
彼はそんな彼女の瞳をのぞき込むようにして続ける。
「普通の場合の愛の形が三角であっても、四角や円であっても、
それはすべて同じじだということが、やがて分かってくるでしょう。
そんな見方の出来る人同士が愛に目覚めた時、
二人の愛は完全に重なり融合していくのです」

恂子は阿井の瞳の中に再び、エメラルドグリーンの海を見ていた。
風波がたち、渦を巻き始めると、いつの間にかその中に巻き込まれていった。
そこには、荒れ狂う嵐と、油を流したような凪が同居していて、
彼女はそのどちらにも属していた。
やがて嵐と凪は交互に襲ってきた。
二つの交代する時間が徐々に速度を増し、一瞬のうちに無限に変化した。
恂子は自分の身体がばらばらになるのを感じながら、
声のない悲鳴をあげて自失した。

どのくらいの時が流れたであろうか。
二つの交代が一点に収束した。
恂子は、その一点に再編成されていく自分を、
おぼろげのうちに自覚していた。

 

19

ドローンにまじって水の音がきこえていた。
気がつくと店内に他の客の姿はない。
「送っていきましょう」
阿井が立ち上がった。
恂子はストゥールから下りたものの、
まだぼんやりしていて、足下がおぼつかない。
自然に阿井の腕にすがっていた。
壁面の通路への階段を上がりながら、
耳の奥で大きく響く自分の鼓動をきいていた。
第三の扉が開く。
理佳と一緒の時、開くことを拒否していた”未完成”の扉が頭をかすめた。
今は阿井と二人だから開いたんだわ、と唐突に思った。

 恂子は幼い頃から、
 自分の前に、いくつかの扉が立てられているような気がしていた。
 どの扉の向こうにも魅力的な世界があるようで、
 胸がおどり、迷いながら、
 時間に追われるようにして一つを選んだと思うと
 すぐ次の扉がいくつか見えてくる。
 だから、確実だと思って行動しても、それは常に不確実なものになる。
 しかし選ばないわけにはいかない。
 いや、選ばないと思った時、すでに選んでいるのである。

(運命やな・・・)
理佳の口調を思い出す。
そして今、心からそう思った。

恂子と阿井の二人は、まるで、この紅い花の世界から巣立って、
仲間のいる、壁面の世界へと羽ばたく蝶のように、
一歩を踏み出した。
阿井は右腕に、恂子の若い重みを感じている。
信頼しきった片方のふくらみが、わきに押しつけられていた。

20

(やはり流れは変えられなかった)
阿井は思った。
自分はいつでも、彼女の心をのぞくことが出来たのに、
大切に思う心が強く、今までそうしなかった。
しかし、自分はたった今、彼女に言ったばかりではないか。
ただ大切にするとか、やみくもに突き進めばよいというものではない。
そんなことを考えること自体、すでに拘っているのだ。
自分に委ねきっている彼女は何のこだわりもない。
自由で澄んだ心をしているではないか。

瞬時に阿井の心は透明に変容した。
静かに恂子の心の中に自我の一端が転位する。

マグマであった。
それは深層から徐々に明度を増しながら、ふくれあがり、
何点かで表層にはじけ飛んでいた。

阿井は自我の一端を残したまま、
捉えられている右腕を彼女の背にまわして、正面を向かせた。
ちょうど彼の胸のあたりで、潤んだ瞳が静かに閉じる。
頬の両側をかるくはさんで、上を向かせ、
恂子の額の中心に唇をあてた。

マグマが沸騰した。
額の接点から阿井の体内に流れ込んでくる。
二人の身体は、その目に見えないマグマで、しっかりと結ばれる。
瞬間、阿井は二人の未来を垣間見た。
壁面の蝶が入ってきた時と同じように、
ヒラヒラと楽しげに飛んでいた。