序破急計画 New

序破急計画

曲立彦は、先ほど主任研究員が持ってきた、
”エルニーニョに関するデータ分析と推計の報告書4”の
最終校正に目を通し終え、
ひとつ大きく背伸びをして、新しい自分の部屋を見回した。
相対する2面の壁一杯の書棚をはさんで、
広くS字にカーブしたデスクが置かれ、
その右側には、
全国にネットワークを持つ、
スーパーコンピュータに連動する端末器をはじめ、
テレタイプやファクシミリなど、種々の機器が設置されている。
デスクの後方は全体がガラス張りで、
その向こうはるか下では、
明るい太平洋が波を打ち寄せて、
眼下の岩に音のない白いしぶきをあげていた。
昨年開設されたばかりの、六星グループ海洋気象研究所である。

曲は机の右側の小引き出しを開けてその中に小声で何か言うと、
S字デスクの左延長上にある、形状記憶ソファーに座り込んだ。
「お呼びですか」
隣の研究室から出てきた主任研究員が頭を下げた。
「この報告書を所長にまわして・・・
それからコーヒーを頼むと言ってくれたまえ」
「わかりました」
主任研究員は、
机に置かれた200ページは超すであろう冊子を取りあげ、
足早に出て行く。
曲は火のついていない大型のマドロスパイプをくわえ、
ゆっくりと足を組む。
こけた頬と縮れた髪の小柄な彼には、パイプが重たげに見えた。

海底火山の噴火から一人だけ逃れた彼は、
それを機に潔く大学を辞した。
自分の人生について、
じっくりと腰を据えて考えてみようとしていた矢先に、
六星グループからの誘いがあった。
あの噴火から幸運にも命拾いした彼にとって、
これもまた何かの縁であろうかと、
特に条件も訊かずに承諾してみると、
研究所は伊豆の海の見える、すばらしい環境に建っていた。
フレックスタイム、最先端の設備と優れた部下、報酬も倍増していた。
そのうえ、所長の話によると、
必要とあれば、研究費はいくらでもだすという。
そして今、曲立彦はここにいる。

「お待たせ致しました」
ラボ助手の女性が、ブルーマウンテンの香りと共に現れた。
「ああ、そこに置いてくれたまえ」
ストレートの時はブラックで飲むのを知っている助手は
「ハイ」と答えてテーブルにセットを置き、一礼して去っていく。
彼は左手でパイプをとり、右手でカップを持ち上げる。

数ヶ月前までの学内生活が夢のように遠くにあった。
(今頃、田丸は何をしているだろう)
曲と教授を争った男の名である。
ここは別世界のように明るく、清潔で居心地がよい。
曲はカップを口に運び、香りを楽しみながら、徐に飲み始める。

「それにしても、予想以上だ」
思わず口に出たのは報告書のことであった。
5月にはいってから、ペルー沖の海面水温は6度の上昇のまま、
1ヶ月以上も居座っている。
上昇気流が激しく、中央太平洋では、はなはだしく水位が上がって、
洪水の恐怖にさらされていた。
データの解析が出来た時には、すべてがもう現実のものとなっている。
間に合わないのだ。

今日の編集部は朝から騒々しい。
「参加者が200人を超えるとは、驚いたな」
「やはり豪華客船の上ってのが効いたのさ」
「北海道から沖縄までだぜ。世の中には暇な奴もいるもんだな」
「バッカヤロウ。お前ら誰のおかげでオマンマ食わしてもらってんだよ」
スポーツ娯楽担当デスクの齋藤が怒鳴る。

(そうか、今日は雀聖戦の1次予選があるんだっけ)

自分が好きでやっている仕事くらいよいものはない。
満たされながら、収入になり、ストレスもたまらない。
槙原恂子は、憧れてこの世界に入り、
たくさんの人たちに出会い、いろんな経験ができて幸せだと思う。

(理佳はどうしているかしら)
結婚式の案内状が来るのを心待ちにしていたのに、
その後、林理佳からは、何の音沙汰もない。
今、恂子は理佳がいた席に座っている。
前の自分の席がさびしそうに見える。

(7月には新人が来るっていってたけど・・・)

恂子は5月から引き続き、エルニーニョを担当していた。
T大を辞めて六星海洋気象研究所にいる曲立彦とは、
その後も連絡を取りながら協力してもらっている。
5月は、エルニーニョの説明とその不思議性についてふれていたが、
6月は、実際にその影響とみられる,様々な異常気象が起こっていて、
誌面も倍増してもらっていた。

ヨーロッパでは、低温の長雨が続き、
特にスイスでは、現在15日間、雨の日が続いている。
一方アメリカでは、6月に入って熱波が襲い、
テキサスなどの中央部では、38度以上の高温の日が続いていて、
熱射病などの死者も出はじめている。
日本では大規模な黒潮の蛇行が始まり、
5月、6月と低温の日々が続いていた。

(フーン、とうとう来た。予言のとおりだわ)

せっせと鉛筆を動かしながら、
恂子は何故か、
予言が当たることを望んでいるかのような錯覚に陥っていた。

世界的に発生していた集団自殺は、どうやらおさまりつつあるようだが、
年少者を中心とした誘拐、行方不明は、依然として続いていた。

5月に入ってから、なりをひそめていた海底火山が
再びあちこちで噴火をはじめ、
くわえて環太平洋火山帯に沿うようにして起こっていた、
小型の群発地震が、人々の心を逆なでしていた。
異常現象担当は取材に忙しく、
連絡係の恂子をのぞいて、全員が出払っている。

(でも、編集長はきっとモカにいるわね)
ふと思った恂子は、理佳がいないので、顔を見合わせる事も出来ず、
一人、マスコット人形の鼻をつついた。

教団ビル60階。
ゆったりと立ちこめている紫色の霧が、時々光を増減させ、脈動している。
「X計画進行中。太平洋入水者、各国合計848名」
コンピュータの声が聞こえる。
「日本での入水希望者全員終了」

(予定どうりだな)
どこからともなく思念が伝わってきた。
(一般への影響については、配慮してあるのですか。
内閣調査室が動いているということですが)
(それは、民友党の太田黒を通じて、すべて押さえてあります)
(家族や関係者のほうは?)
(全員にサイココントロールがなされ、
表面にでることのないように、十分に手は打ってあります)

 彼らはいったい何者なのだろう。
 その影さえも見えない。
 思念が飛ぶ時だけ、紫色の霧が脈動する。

「あの男、秋山とか言ったわね。だいぶやるって話じゃないの」
女が初めて声を出した。
同時にそのあたりの霧が後退し、
身体に2,3枚の布きれしかつけていない女の姿が現れる。
濃厚な色気が発散されると、
一度後退した霧が集まってきて、彼女の身体に触れ光を明滅させる。

「ウム。最初の赤(レッド)クラスで失敗したものの、
その後の発達はめざましいものがある。
この短期間に緑(グリーン)クラスまで上がるとは異例のスピードぶりだ」
「3月下旬にX計画に参加させて潮岬にやりましたが、
最初にしては上出来でしょう」
「かなりの潜在力があると聞いていましたが、
さすが、お目が高いですね。得意とするものは何ですか」
「まだ十分とは言えませんが、集団催眠に優れたものをもっています」

みんなが肉声で話し始めると、霧が後退し、
やがて4人は一カ所に集まってきた。

「で、例の彼女とはどうなんだ?」
「それが、結婚したんです」
「ほう。なにもこの時期に結婚しなくてもいいだろうに・・・」
「緑(グリーン)クラスともなれば、
今後のことが、うすうす見えていたはずだよねぇ」
「恋は盲目というからなぁ」
「その言葉は、いつか聞いたことがありましたね」

(ところで、人材発掘のほうは、どうなっているのか、データをだしてくれ)
NO1が無言で指示した。
「X計画進行中。有能な人材19名発見、13名獲得」
コンピュータが答える。
(フム、まあまあか)
(緑(グリーン)クラス以上に上がれるような人材は、
そんなにたくさんいるわけがありません)
(秋山が第1号ってわけね)
(いや、彼はその前に私が偶然見つけたんだ。
彼なら青(ブルー)クラスもクリアーするだろう)

 どうやら教団のX計画は2段階になっているらしい。
 第1が集団自殺、第2が若年層を中心とした誘拐だ。
 それは、彼らにとって必要な人材の芽を集めるのが目的である。
 単に能力があるということだけではなく、
 彼らと血を同じくするものを探しているのだ。
 彼ら同士には、おのずから同族であることがわかり、
 自分たちの故郷へ行くために、進んで集まってくるのだ。

(みんな故郷を求めているのです)
(光と水の国だわ)
(理想の世界です)
(祖国”ムー”の復活だ)
4人の思念が同時に発せられ、一点で渦巻いた。

(そのために、団結しなければならないのだ)
「白のおかた!」
4人がさっと緊張する。
紫色の霧が四散し、純白の寛衣の男が現れる。
床の一部がせり上がって男がそれの腰を下ろすと、
4人はその周りを取り囲むように坐る。

「X計画は順調に進行しております」
一人が報告調に言う。
「分かっている。
われわれは、いよいよ次の計画にとりかからなければならない」
男は、たいして口を開いているようにも見えない。
しかし、部屋全体に声がエコーする。
「多少のトラブルはありましたが、準備は完了しております」
「海底火山の噴火を、もう少し押さえられないのかしら。
ちょっと目立ちすぎだと思いますけど」
女は先ほどとは打って変わって改まった言い方である。
「あれが限度です。これ以上押さえると、
エネルギーが中央部に集中して計画全体が崩壊してしまうでしょう」
「エルニーニョはどうなのかね」
「あれは自然発生したもので、こちらとは関係ありません。
しかしY計画の準備段階と、相乗効果を示していることは明らかです」

 エルニーニョは別として、
 海底火山の噴火も、彼らの意図するところであるらしい。
 つまり、世界中を混乱させている、ほとんどの現象に、
 彼ら”天の羽衣教団”が関係しているのだ。

「特に問題はないようだな。
それでは、本日からY計画を実施する。
以後極東におけるXYZのコードネームは”序破急の舞”と名付ける。
では、具体的な内容に移ろう・・・」
(・・・・・)
(・・・・・・・)
紫色の霧が勢いを増し。
再び、5人から言葉が失われていった。 

7月1日。出勤直後。
GOO編集部のドアが開いて、編集長の岡田遥之が姿を現した。
彼の後ろに隠れるように、小柄な女性が立っている。
「注目!」
デスクの山崎が立ち上がった。
一同腰を上げて入り口を見る。
岡田は後ろの女性を右手で前に出るよう促し、紹介した。
「今日から編集部に来てもらうことになった星野美雪さんだ。
理佳の時と同様、宜しくたのむ」
「星野美雪です。よろしくお願い致します」
彼女は恥ずかしそうに頭を下げる。
岡田は恂子のそばを通りすがりに、「たのむでェ」と小声で言った。

恂子は美雪を前に自分がいた席につかせ、簡単な自己紹介をする。
「お勤め初めてですの?」
恂子にしては丁寧な訊き方である。
「ええ、今年大学を卒業しました」
「22歳?」
「はい」
「いいなあ・・・」
恂子が大げさに嘆くと、美雪はクスリと笑う。
ショートカットの髪が清潔で、特にその大きな目がいい。
きれいに澄んでいる。

若いということは、それだけで輝いている。
未来への時をたくさんもっているからだ。
古来、何と多くの人たちが、時を買おうとして失敗してきたことだろう。
(この世で一番大切なものは時なのかもしれないわ」
恂子の指が胸のペンダントにふれた。
(喉が渇いたわ)
ふと、声が聞こえた。はっとして美雪の顔を見たが、
言葉を発したようには思えない。
恂子は、おかしいと思いながら立ち上がり、
部屋の隅に用意してある、お茶を入れてくる。
「どうぞ」
勧めると、驚いたように、大きな瞳で恂子の顔をを見上げ、
すぐ目を伏せた美雪は、編集部特製のお茶を手にのせた。
よほど喉が渇いていたのだろう。
飲み終えた彼女は「おいしかったわ」と笑顔で言った。
美味しいはずもない、お湯に色が付いただけのお茶である。
「それじゃぁ・・・」
恂子は、すぐに仕事の打ち合わせにはいった。
美雪は当座与えられた、エルニーニョ関係の書類整理を始める。

9

エルニーニョの影響はその後さらに広がり、
スイスでは、雨の日の連続記録を、
アメリカでは、連続38度以上の猛暑の記録を更新しつつあった。
海面水温の上昇域はペルー沖にとどまらず、
太平洋中央部まで進出し、赤道を中心とした島々では、
水位の上昇が激しさを増すばかりであった。
一方オーストラリア北東岸では、
日照りが続き、深刻な水不足に悩まされていた。

恂子は今まであまり考えたことのなかった自然の力というものを、
思い知らされた感があった。
赤道付近でたった温度が5,6度あがっただけでも、
これほどの世界的影響が出るのである。
さらに追い打ちをかけるような、人災を重ねてはならないと思った。

岡田がのそりと立ち上がった。
みんなが見ないふりをしているのを知ってか知らずか、
悠々と部屋から出て行く。
(またモカだな・・・ったく・・・)
思いながら鉛筆を動かしていると、突然か部屋が大きくゆれた 。

ドーンという音と共に持ち上げられ、
そのまま下に放り出されたような衝撃を受けて、
恂子は思わず机にしがみつく。
横ゆれが始まった。
火を消せ。窓を開けろ。などと叫ぶ声が聞こえ、
男性記者が立ち上がるが、思うように歩けない。
壁に掛けてある絵が額ごと飛んでくる。
書架から大型の書物が転がり出る。
ガラスの割れる音を聴きながら、
恂子は無意識のうちに机の下に潜り込んでいた。

かなり長い時間に感じられたが、
実際には2分と経っていなかったかもしれない。
揺れが徐々に収まって、
机の下から這い出してきた恂子は、室内の様子に茫然とした。
編集部の何もかもが、投げ出されて混じり合い、
足の踏み場もない。
夢中で気づかなかったが、
潜った机そのものが、かなりずれて隅の方へ寄っている。

ようやく皆が動きだした。
「スッゲエなぁ」
誰かが言うのに覆い被せて、
山崎がガスの元栓を点検しろとか、
重要書類のロッカーを見てこいとか指示をだしている。
隣の机の下から、星野美雪が青い顔を出した。
出社した初日に地震の歓迎を受けるとは、
さぞかし驚いたことだろう。
一応の片付けが終わった時には、もう昼近くになっていた。

10

「震源地は伊豆半島沖20キロ、震源の深さは30キロ、
マグニチュードは6.9であります」
室内の無事なテレビが言っている。

「特に異常はないようだな」
山崎が全体を眺めて言った。
「へぇ震度5だってよ。
くわばら、くわばら、あたしゃ低血圧がぶっ飛んだよ」
「とたんに腹が減ったと言いたいんでしょう」
「アタリー」
大川と小山の弥次喜多コンビがやりあっている。
「バッカヤロウ。取材だ取材、早く行かねぇか」
山崎が怒鳴る。

(こんな時こそ、みんながしっかりしなくちゃいけないのね)
恂子は、肩に取材バッグをせりあげ、
いつも持ち歩く小型カメラを片手に、美雪に声をかけた。
「初陣だわよ!」
美雪ははじかれたように立ち上がった。
新調らしいスーツ姿が、この場の雰囲気に妙にいたいたしい。
「星野君はいいんだよ」
山崎がやさしい目をした。
「それじゃぁ・・・」
恂子は、もうあらかたいなくなった連中を追いかけるように、
部屋を飛び出した。

マグニチュード6.9、震度5というわりに被害は予想より小さかった。
古い小型ビルの倒壊はあったものの、
ほとんどはひび割れや、ガラスの破損程度に留まり、
高層ビルに至っては、まったく被害がなかったと報道された。
「思いのほかだったね」
「関東大震災の時の、2倍以上は持ちこたえられるように
設計されているというのは、事実のようですね」
連絡のため残っていた二人が、テレビ画面を見ながら言った。

11

紫煙が立ち上がっている。モカのいつもの席である。
岡田遥之は向かい側の椅子に両足を上げ、
おもむろにポケットから細長い紙片を取り出した。
表面には6桁の数字が順にきちんと並んでいて、
彼は指でそれを追いながらうなずいている。
三枝由美がカウンターの中にいた。他に客はいない。
岡田の為にひいた専用の豆の香りが,
やわらかなセミクラシックの音楽にのって、二人の空間を満たしている。

「太平洋の各地で、ほとんど同時に地震が発生している」
「天の羽衣教団ですわね」
由美が小さな口を開く。
「環太平洋火山帯に沿って起こっているが、
プレートの沈み込みによるものではない」
「・・・と言いますと」
「まだ調査中だが、海底自体に何らかの異常が起こっているらしい」
岡田はやおら足を下ろし、カウンターに移ってきた。
「最大のものはチリ沖で、M7.7だ。かなり被害がでている」
「サンチャゴの教団ビルは?」
「無事だ」
「そうですわね」
由美は当然のことのようにうなずいている。
「まあ、チリ以外ではたいした被害ではないのだが、問題は・・・」
岡田は言葉を切り、新たなタバコに点火して言った。
「津波だ」
「ツネミ・・・」
「そうだ、現在、太平洋中央部は異常に水位が上がっていて、
洪水騒ぎが持ち上がっているほどだ。
それにチリ津波が押し寄せたとしたら、大被害になりかねない」
「たしか、前に三陸地方でそんなことがありましたわ」
「今回は22時間以内に来る。三陸と同程度の規模になろう。
もちろん政府はもう手を打っていると思うが・・・」

岡田は最後を独り言のように言って店の外に目を向ける。
人の動きがはげしい。
今の地震で地下街の店は、
かたづける作業が山ほどあるにちがいない。
それにしては、モカはやけに落ち着いている。
カウンターの後ろにある棚の品々にも一切異常はないようだ。

「教団は”序破急の舞”という計画を
実行に移していることがわかりました。ついさっきのことですわ」
「うむ、おそらく彼らの計画の
日本又は極東におけるコードネームだろう。
内容はまだ分からないのか」
「調査を開始しましたが、まだのようです」
「それと、前から依頼していた教団の階梯についてだ」
由美は岡田の視線が、
じっと自分の胸に注がれているのを意識していた。
やがて由美は俯き加減に目を伏せたまま答えた。
「ハイ・・・」
声がかすれていた。

12

7月1日正午。
気象庁は気象資料総合システム”コスメッツ”により、
三陸から関東地方に津波警報をだし、
東京をはじめ、神奈川、千葉、静岡の各県に対しては、
内閣総理大臣による警戒宣言が発せられ、避難命令が出された。
しかし、伊豆の六星海洋気象研究所は、
震源地に近いにもかかわらず、地震による被害は皆無であった。
六星グループが開発したショックアブソーバーが
全国ネットのスーパーコンピュータと連動して即時に作動し、
最初の揺れが来た直後から、わずかにゆれている程度にしか感じなかった。
曲立彦は、震度5という報道に、むしろ驚いたくらいで、
六星グループの技術水準の高さに、あらためて舌を巻いていた。

「あと4時間か」
S字に曲がったデスクの端でテレタイプがカタカタと音を立てている。
また部屋が微かにゆれた。
曲は火の付いていないマドロスパイプをくわえ、
デスクの右端の小引き出しを開けて、コーヒーをたのむと、
形状記憶ソファーに座り込んだ。
外では大変が事態を迎えようとしているのに、
ここは、安全で心地よい。
考えて見れば人生とは不公平なものだ。
誰かが浮かべば誰かが沈む。
(みんなが幸せになるなんてことは、出来ない相談かも知れない)
曲は”いるかⅡ号”に乗って以来
なんだか自分が物思いにふける癖がついたような気がした。
(四倉はおしい男だった)
自分を見つめて指示を仰いでいた、四倉助手の熱い視線が思い浮かんだ。

13

ラボ助手がコーヒーを置いて出て行くのと入れ替わりに
主任研究員が走りこんで来た。
「部長、今の地震で日本側からも、津波が太平洋に向かっています」
「何!」
曲は手にしたブルーマウンテンを置くなり、スパコンの端末に向かった。
素早く動く指によって、次々と出てくる情報と、数字や図形を交えたデータを、
さらに重ねてインプットする。
ほとんど同時に結果がデジタルとアナログの両方式で、スクリーンを埋める。
「2時間後だな」
後ろに立っている部下に言った。
「チリ津波と日本津波がぶつかることになる」
「南鳥島と硫黄島の中間あたりです」
答えが彼のちじれた髪の毛に返ってきた。
「こんなことがあり得るのでしょうか」
「ウーム」
曲はもう一度せわしくキーを叩き、画面を凝視した。
「まちがいない」
曲は今まで息をしていなかったかのように、2,3度大きく深呼吸した。
そばにいる研究員のことなど眼中にない。
デスクの小引き出しを開けて所長に連絡し、足早に部屋を出て行く。
研究員は、部長の勢いにはじき出されたように、隣室に消えた。
無人の部屋にカタカタとテレタイプの音が響く。

14

所長室に入るやいなや、曲は身体に似合わない大きな声を出した。
「所長、どのように対処したらよろしいでしょうか」
所長は腕を組んで曲を迎える。
「緊急にメンバーを選りすぐって現地に飛びたいのですが」
「そう焦ることはあるまい。六星グループのチャーター機が、
もう現地に行ったいる。もうすぐ現場の映像が送られてくるはずだよ」
「しかし、自分の目でたしかめたいのです」
「まあ君、そう興奮せずにかけたまえ」
所長は自分のデスクから立ち上がって、
大きな応接セットに深々と身を沈めた。
テーブルの脇についているボタンを押して秘書を呼び、
顎の下をゆっくり撫でる。
「所長!」
曲は立ったままだった。
「お言葉ではありますが・・・」
隣室から秘書が現れた。
「君はたしかブルーマウンテンだったね」
所長は自分の分と二つ持ってくるように秘書に言いつけている。
曲はしかたなくソファに腰を下ろした。
「所長、この現象は単なる偶然ではないと思います。
原因に腑に落ちないところがあるのです」
秘書が王朝風のコーヒーセットを運んで来た。
「世の中にはまだまだ我々の知らないことがたくさんあるものだよ、君」
所長はカップを持ち上げ、別の手で顎を撫でながら、曲を眺めている。
「しかし所長・・・」
次を言おうとした曲を手で制して所長が断定した。
「行く必要はない。津波はじき収まる」

15

2週間後。
三枝由美は自分の部屋を念入りにみがいて、
白い小型のテーブルに、ちょっとしたおつまみを並べた。
3枚の皿と、小どんぶりの位置をもう一度なおしてから、
鏡に自分の和服姿を写してみる。
午後11時。
チャイムもなく、扉が開いた。
「お帰りなさい」
由美はささやくように言って男の腕に捉えられる。
長い接吻の後、一つ吐息を漏らして男の背広を脱がせる。
着替えを終えた男がソファーに座る。
由美は冷蔵庫からビールをとりだし、
腰を斜めにして男の向かい側の椅子に座り込むと、
袖に手を添えて2人のグラスを満たした。
(・・・・・)
静かにグラスが合う。
男はグラスを一気にあけ、
目の前に用意されているタバコに手を伸ばす。
由美はまるで男の呼吸をはかったように、ライターに点火する。
男は大きく吸い込んだ煙を静かにはき出す。
二人の姿が一瞬紫煙に煙った。

「集団自殺をはじめ、若年層の誘拐や失踪など、一連の事件は、
天の羽衣教団が行っている”序の舞”であることがわかりました」
由美はその場の雰囲気にはほど遠い言葉を口にした。
「教団はすでに”破の舞”を実行中とのことです」
「おそらくこの海底火山の噴火や地震も、その一部だろう」
「この津波もでしょうか」
「ウム、」
「でも、こんなに被害が小さくてすんだのは、不思議ですわ」
「チリ津波を日本津波が迎え撃ったのだ。
無人の海中でエネルギーがぶつかり、空中へ放出されたのだ」
由美は男の空になったグラスにビールを注いだ。

16

「やはり何らかの意図があってのことにちがいない」
男は半分ほどを一息で飲み、小どんぶりの中の白いかたまりをつつく。
「序の舞は静かに淡々と進み、破の舞につながる。
そして急の舞で、文字どうり一気に舞い上がるのだ」
「急の舞については、まだ情報が入っておりません。
それから前から調査中であった、教団の階梯のことですが・・・」
由美が続ける。
「10階梯のうち第1階梯は関係者なら誰でもなれるもので、
常務の大沢もそうです。
でも2階梯以上は、ある力(パワー)がないと上がれないということです」
「・・・それで」
「2階梯から8階梯までは、
虹の色のように、
波長の長いものから順に赤、橙、黄、緑、青、藍、紫となっていて、
紫は導師と呼ばれ、日本には4人しかいないということです」
「もちろん上にいくにしたがって力が大きくなるということだな」
「そうです。現在分かっているのは、
ビルそのものの構造が1階梯は18階まで、2階梯は27階、
3階梯は33階までしか上れないようになっているらしい、ということだけです」
長い間2人の話が続いていた。

17

8月に入ると、アムール河、黄河、長江などの水量が増し、
特に長江では各所で氾濫して、死者もでていた。
日本においては、山陰や北九州で同様な現象が見られ、
福岡県では、例年の5倍の降水量が記録されている、
北海道でも、石狩川が増水し、水害騒ぎが起こっていた。
黒潮はひとかけらの断水塊も残さずに大蛇行し、
三浦半島まで下りてきた親潮が居座っていて、
東北地方を中心に冷害の可能性が強まっていた。

その観点から見ると、フランスでは、日照時間不足のため、
ブドウの生産がおちて、ワイン産業に多大な影響を与え、
逆にソ連では、
干ばつのために、穀物生産の30%の減少が見込まれていた。
他方人為的な事件では、誘拐や失踪が世界的に広がり、
日本でも若年層を中心に13人が行方不明のままになっている。

(いったい、どうなるのかしら)
月刊GOO編集部の槙原恂子は、鉛筆を動かしながら考える。
世界的に自然と人間の異常が同時に進行しているのだ。
今や、予言が当たったなどという問題ではない。
日本中が世界中が、破局に向かって動き出したような気がする。
(そしてこんどの地震だわ。でも、どうして・・・)
環太平洋火山帯に沿ってほぼ同時に発生した地震は、
津波もふくめて奇跡的といえるほど被害が少なかった。

18

「先輩、お茶をどうぞ」
星野美雪が、編集部の特製茶をいれてきた。
気づかなかったが、部屋にいる全員に運んでいたらしい。
「ありがとう」
受け取りながら、恂子はつい3ヶ月前の自分を思い出す。
編集部の連中に、よくこうしてお茶を入れたものだった。

理佳からは、その後なんの連絡もない。
落ち着いたらハガキくらい来てもよさそうなものである。
(結婚はうまくいったのかしら)
「先輩、何を考えているんですか」
「えっ、ああこのお茶、相変わらず色だけは本物ね」
恂子と美雪は顔を見合わせ笑う。
ほんとうに、これじゃあ理佳と二人の時と同じだわ。
それに、何となく男言葉になっている自分を思うと、
また、ウフフと追加笑いが出る。
しかし、美雪はもう仕事に戻っている。
彼女は今、誘拐や失踪など、主に人為的な事件についてまとめている。

ふと、阿井の面影が浮かんだ。
あの日アパートまで送ってくれて別れたきりだった。
(こんなものなのかしら・・・)
普通はもっと毎日のように逢いたくなるのではないだろうか。
(もう2ヶ月になるわ・・・)
手が胸のペンダントを探っていた。
人差し指と親指の腹でかるくはさんででこする。
たった今わき上がった疑問が嘘のように消滅する。
同時に美雪が編集部の環境に慣れきれず、
精神的に疲労しているのが分かった。
表面には出さないけれど、美雪はだいぶまいっているらしい。

「仕事終わったら夕食でもどう?」
恂子は美雪の肩をつついた。
「えっ!?」
美雪の鉛筆が宙に止まった。

19

編集部は、あの地震以来多忙をきわめて、
新米の美雪も、気を緩めることができなかった。
恂子が、さりげなくカバーしてくれるので、助かっているが、
たまには、夕食をかねて、
ムードのある店でちょっと飲みたい、と思ったばかりであった。
(この先輩は不思議だ)
「この地下に”近鉄”・・・じゃなくて、
バッファローズ新宿ってステーキ専門店があるんよ」
恂子は屈託がない。
(そういえば、初めて出社した時もそうだったわ)
喉が渇いてたまらなかった自分に、お茶を淹れてくれたことを思い出す。
「それにワインもいけますわよ」
恂子がおどけたように続ける。
「ええ、ステーキ、私も大好きなんです。ぜひお願いします」
「じゃぁ決まりね」

恂子は美雪の探るよう眼差しを気にする風もなく、
男言葉の理佳をまねたり、ちょと岡田のなまりをいれたり、
どれが自分だかかわからない言い方をする。
(編集長のことをあまり言えないわね)
恂子は再び鉛筆を動かしながら、ちらっと岡田のほうをうかがった。
岡田は上着を脱いで、ネクタイの胸もとをゆるめ、
両足を机の左側にあげている。
顔のあたりが紫煙にかすんでいるのではっきりしないが、
目を閉じて、ぼんやりしているように見える。

20

(また、しばらくは会えないでしょう。
でも、そのペンダントがあるかぎり、毎日会っているのと同じことなのです)
恂子の胸に阿井舜真の言葉が甦る。

 アマランサスの蝶の通路で、額に彼の唇を受けた時、
 自分の中に沸き上がってくる熱いものが吸い取られ、
 また、逆流して渦を巻いている感覚に襲われた。
 一瞬に失われ、次の一瞬に回復するエネルギーの急流であった。
 恂子は、ただそれに翻弄され、眩暈を感じるなかで、
 今後自分は、この人と共に行くのだと感じていた。
 
 ほとんど力が抜けてしまったようになって、
 阿井に支えられながらアパートの階段をあがった時、
 ふと、教団ビルの階段でのことを思い出していた。
 あの時の阿井の茫洋とした瞳が、
 すでに、現在の自分を決定していたのかもしれないと思った。
 阿井はアパートの前で恂子の顔を上に向け、
 じっと目を見つめながら言ったのだった。
 恂子は後ろ手にドアの取っ手をしっかり握りしめ、
 満足とも、そうでないともいえる、複雑な気持ちで、
 ゆっくりと階段を降りていく阿井の姿を見送っていた。

(毎日会っていると同じことだなんて・・・)
机上に鉛筆を置き、恂子は心の中で、
別れ際に言った阿井の言葉を繰り返していた。
ペンダントに手がいく。
目をつぶった。
阿井の唇を受けた額のあたりに、微笑みながら、うなずいている彼の姿が、
おぼろげに浮かび上がった。
恂子は、あの時以来自分の内側に起こる不思議な変化を、
ようやく分かりかけてきていた。