出発(たびだち)

出発(たびだち)

明るい爽やかな陽射しの中に4人の男が円卓を囲んでいる。
(フィリピン沖の地震は我々の手によるものではない)
(”破の舞”の最終段階に誘発されたものではないのか)
(それにしては規模が大きすぎる。フィリピン沖だけというのも妙だ)
ザー、ザーと繰り返し音がしている。
4人のすぐそばまで波が打ち寄せているのだ。
はるかに続く白い砂浜の向こうは、パールグリーンの浅海である。
(今までこんなことはなかったな)
(ウム、何か気になる)

「外部汚染地域洗浄処理順調」
コンピュータの声がする。
ここはフイージー大陸塊、
1メガトン級の核爆発にも耐えた帝国政府中央ビルである。
4人がいるのは本当の海岸ではない。
このビル60階の枢機卿室である。
外は放射線汚染によって人間の住めるような環境ではない。
だが、彼らはそんなことをまったく意に介した風もなく、
自然そのままの日光浴を楽しんでいる。
帝国の科学力は、すでに汚染地域を洗浄しつつあり、
内部に至ってはいっさい汚染の影響を受けていない。

「”破の舞”進行中。帝国の傘下国134」
(他の国も、事実上何も出来る状態ではあるまい)
「計画による死亡者2億3900万」
コンピュータが無感動に告げる。
(まあ、こんなものだろう)
(10億と言ったのは、あなたがたの総大使館ですよ)
(彼はちょっと過激なところがあったからな。
だがもう、この世にはいない・・・)
アジア総大使館の「白のお方」、枢機卿NO1の思いがゆれる。
(GOOの急襲でヴァイオレットクラスだけでも5名をうしないました)
(そのことだが、今回のフィリピン沖地震と、
それに続く奇怪な海鳴りも、彼らの手によるものではないのか)
(いくら彼らでも、そこまではできまい)
人種も言葉もまったく異なるはずの4人だが、
意志の疎通にことかくことはない。

遠い海鳴りが聴こえる。
コンピュータの発生装置が呼応する。
(発信源はビチアス海淵だそうだが・・・)
(うむ、今頃は我々の誘導で、日本政府が探査に動いているはずだ)
白のお方が遠い目をした。
爽やかな風が4人の寛衣をゆらし、
青い海はビル内の空間を超えてどこまでも続いているように、
緩やかにカーブした水平線を描いている。

「時刻です」
4人が緊張したように立ち上がった。
彼らの耳に超高温が響く。
やがてそれは柔らかな音群となって、無限に重合していく。
さんさんと降り注ぐ陽の光の中に、
半透明の薄絹を纏った、長い黒髪の女性の姿が浮かび上がった

出発(たびだち)

「女王陛下!」
4人が感動の声をあげた。
青い海の上空に浮かんでいる女性の像はたちまち拡大し、
今や空全体に広がっていた。
それは天の羽衣教団18階の壁に描かれていた羽衣そのままの、
天女の姿にほかならなかった。
(・・・・・・・)
女王の清らかな波動が伝わった。
「”急の舞”でしょうか」
(・・・・・)
「どうしてもだめなのでしょうか」
(・・・・・)
「はい、羽衣をラグランジェ点まで移動させます」
(・・・・・)
「お待ちください!もう一度ムーを、ネオムーを・・・」
4人の声に必死の思いがこもる。
だが彼らの前にさえ初めて出現した女王の姿は、
重合する音群の彼方へと溶け込んでいく。
上空には色とりどりのきらめく光と、音の融合だけが残っていた。

また海鳴りがする。

その同じ音は東京のアジア総大使館にも響いていた。
「”破の舞”進行中。雌阿寒岳、駒ヶ岳、浅間山、三原山、
雲仙、阿蘇山、桜島活動中」
コンピュータの声がする。
紫色の霧の中に、
三原山と浅間山の噴煙にはさまれた
陰鬱な東京の街並みが映し出されている。
(今、中央政府より指令がはいった。
やはり”急の舞”は実施される。羽衣は移動を開始したそうだ)
NO1が断定した。
(でも”破の舞”は成功しているんでしょう)
(うむ、すでに帝国の傘下に入った国は140を超え、
約2億4000万の人口減となっている)
(順調じゃないの、なのにどうして・・・)
(GOOが関係していますね)
阿井が静かに言った。
このビルでNO4の消滅と同時に、
新生火山地震研究所と六星海洋気象研究所の所長をはじめ、
ブルークラス4人が廃人となっている。
(ほんとうに一瞬のことだったわ)
NO3が岡田の出現と、No4の消滅を再現させて、
恐怖と欲情の入り交じった雰囲気をふりまいた。

遠い海鳴りの音がコンピュータの発生装置をふるわせる。
(ところでさっき”白のお方”から確認されたんだが、
ビチアス海淵の調査はどうなっている)
(太田黒に命じて例の”しんかい6500”を稼働させることになっていますわ。
今頃はもう現地でしょう)
NO4の消滅の後、彼の仕事を引き継いだNO3が答えた。
目の前の三原山が音のない火柱を噴き上げる。
(所長の後任は見つかりましたか)
(ええ、新生火山地震研究所のほうはブルークラスに専門家がいましたが、
・・・・・六星のほうは、この際つぶしてしまおうと考えていますわ)
この妖艶な女は、いつものように、あっさりと言ってのけた。

曲立彦は、日増しに強まる海鳴りの発信源を調査すべく、
グァムを出航した”よこすかⅡ”の甲板に立っていた。
しばらくイライラの原因であった所長が突然倒れ、
曲は、その代行を命じられていたが、
3日前、海洋科学技術センターから、海洋調査の依頼を受けて、
”しんかい6500”に乗ることになった。
目的地はビチアス海淵である。

国中が、火山噴火で大騒ぎをしているさなかに、
曲は何か割り切れない気持ちもないではなかったが、
海洋学者としての興味が、それに数段勝っていた。
例によってあわただしい出発ではあったが、
こうして海を眺めていると、平穏な気持ちになってくる。
1年ほど前、大学を辞めるにあたって考えた事柄を思い出す。
パイプに火をつけ深く吸い込んで咳き込んだ。
いつものことだと思いながら、また大きく咳き込み、
苦しさに身体を丸めた。
取り出したハンカチで口を押さえる。
「ウッ」
手からパイプが落ちた。
白いハンカチが真っ赤に染まっている。
あたりを見回し、素早くハンカチをたたんでポケットにねじ込んだ。
パイプを拾ってゆっくりと身体を起こす。
その時彼は、初めて妙に怒りっぽくなり、
先を急がされているような気になっていた、真の理由を知った。
それは、地震のせいでも所長のせいでもない、
他ならぬ彼自身の病のせいであった。

(自分を酷使しすぎて来た。これを機にすこし休むことにするか)
曲は最近船の上で思ったことが
一度も実現していなかったことに気づいて苦笑しながら、
右手でそっと胸をさする。
いがらっぽい味が口に残っていた。

波が立ち騒ぐ。
海が呼んでいる。
曲にはそう聞こえた。

「よし、明日は潜るぞ」
決然と言ったが、心は灰色であった。
以前見た真っ赤な夕陽と、きらめく光の帯は、今はない。
船はさらに暗く深い、マリアナ海溝にさしかかろうとしていた。

相変わらず晴れることのない空に下、
”しんかい6500”は、
母船”よこすかⅡ”のクレーンで海面に下ろされた。
パイロットの小田桐がチェックしている間、
外ではダイバーが出て、クレーンのワイヤーを外しにかかる。
やがて母船から潜水の合図があり、25トンの巨体が下降を始めた。
曲立彦は、すでに一度潜っているので、
かなりなれた目で、大型の牡丹雪のように下から上へ流れていく
マリンスノーを眺めていた。

「深度300」
コ・パイの白戸が言った。
水は徐々に暗さを増し、やがてまったくの闇となる。
機器の作動音だけが、唯一船の健在ぶりを主張していた。
「予定どうり行きますよ」
小田桐が曲を見た。
ビチアス海淵東部、約100キロにある、
深さ2000から4000ートルの大きな海台に下りようというのである。
「音がきこえませんね」
例の海鳴りである。
「船内だからでしょう。ソナーには反応しています」
小田桐が白い歯を見せた。

「深度2000」
前部投光器が少しずつ迫ってくる海台上部を照らし出した。
泥か砂であろうか、波のような模様が見えている。
「着艇」
泥が舞い上がり、しばらく視界をを閉ざす。
「深度2300。視界4メートル。泥と砂の堆積は少ない。
下部はすぐ岩盤のようです」
白戸が母船に報告する。
マニピュレーターによるサンプルの採取など、
一通りの調査の後、船は一端海底を離れ、水平に移動を始めた。

7

「先生、すべて順調です。予定どうり、この海台にそって下降します」
投光器が
海台の縁から30度ほどの斜面になって落ち込んでいる
空間の上部を捉えた。
この下は、まだ誰も到達したことのない未知の深淵である。

「深度3000」
(そうだ、この先まだ7000メートル以上も下へと、海が続いているのだ)
曲はあらためて海の深さを思った。
それは学者として考察していることとは異なり、
人間としての、自然に対する畏怖の念であった。

「深度4000」
急斜面はなくなり、なだらかに下る海底をさらに下降していく。

「この音は一つのものではありません。
たくさんの音波の融合したもののようです」
「おや、急に間隔が開いてきました」
白戸が進路に目をやりながら言った。
小田桐が母船連絡用の通話器にむかう。
「しんかい=よこすか。どうも変です。音波発信の間隔が長すぎます。
さっきからソナーに反応していません」
「よこすか=しんかい。たった今各国の観測網に反応がありました。
発信源が移動したもようです」 
「しんかい=よこすか。発信源を知らせよ」
「よこすか=しんかい。しばらく待ってください」
曲は妙な気がした。
発信源の移動とは何としたことだろう。
「よこすか=しんかい。発信源確定。ビチアスⅡ海淵、トンガ海溝です」 

「発信源が次々と移動している」 
ネオムー帝国中央政府ビル60階の枢機卿室で、
噴火を繰り返す世界中の火山の映像を見ながら、一人が言った。
発信源はビチアスⅡ海淵から、ビチアスⅢ海淵へと移動し、
その後太平洋の至る所を飛び回り始めた。
それらはけっして同時ではないが、
数分の間に、何千キロもの距離をランダムに移動した。
(おかしい・・・)
何事にも動じない帝国枢機卿の頭に不安がよぎった。
(”しんかい6500”はどうした)
(今頃はビチアス海淵上部に潜っているはずだが)

出発(たびだち)

”しんかい6500”は限界深度に達していた。
「深度、6520メートル。水温2.01度」
白戸が報告した時、母船からの緊急連絡がはいった。
「よこすか=しんかい。太平洋の様子が異常、
急ぎ浮上せよ。オーバー」
「しんかい、ラジャー」
小田桐が即答した。
「ソナーに反応!」
ほとんど同時に白戸が叫んだ。
「下方から異物接近」
障害物ソナーのディスプレイ全体が激しく乱れる。
小田桐がメイン推進器をフル回転させる。
船が急底に前進する。
その周りを下から上へ直径10センチほどの小岩石が
かなりのスピードで通過していく。
数がどんどん増し、中には人の頭ほどのものも混じっている。
「メーデー、メーデー。無数の岩石群に襲われている」
白戸が船の周り一面に何百、何千という小岩石が飛んでいるのを見て
絶望的な声を絞った。

後部に激しい衝撃を受け、船が前方にのめりこむ。
すぐに前部にも、3人の見ている前で2個が衝突した。
小岩岩の集団は1分ほどで通り過ぎて行ったが、
至る所に攻撃を受けた船は、航行不能となった。

10

「メイン推進器、補助推進器破損。水中テレビカメラ、
ステレオカメラ、投光器使用不能」
白戸が続ける。
「メーデー、メーデー。
バラストタンク排水不能。高度ソナー作動せず」
しかし、水中通話器ばかりか、無線もやられたらしく、
母船との連絡はとれない。

ようやく船に一応の安定が戻り、小田桐が無線の周波数を、
いろいろ合わせながら言った。
「先生、これは救助を待つのみですが・・・」
慎重に言葉を選んで続ける。
「いつまで船が安定しているかわかりません。
それに先生、正直に申し上げますと、
ここまで潜れるのは世界中で、この船しかないんです」
小田桐が白い歯を見せた。
笑ったのである。
それはまるで死刑執行の決まった罪人に、
神の世界を説く神父のように、冷静で威厳さえ感じさせた。
「どのくらいもつのですか」
曲の声も落ち着いていた。
「酸素は非常用をいれると5日分はありますが・・・」
船体がギシッと音をたてる。
「少しずつ降下しているんです。
先生と一緒なら、絶対大丈夫だと思っていたんですがね」
小田桐が曲の顔を見る。
曲は自分の運命を知った。

”よこすかⅡ”でも必死に無線の周波数を合わせていたが、
連絡はとれない。
”しんかい6500”に装備されているトランスポンダーによって、
その位置が確認され、検討の結果、
科学技術庁は、外交ルートを通じて、
グァム沖で作業中の
アメリカ掘削船グロマー・チャレンジャー号に
ボーリングパイプによる救出の可能性について打診していた。                     

11

オーストラリアに飛んでいる弥次喜多コンビや、
カメラマンの良ちゃんをはじめ、
ほとんど空席になっている編集部にも、
テレビを通じて情報が入ってくる。
「曲先生、大丈夫かしら」
恂子の横で、美雪が不安そうに独りごちた。
テレビニュースの後から、一定の間隔をおいて、
海鳴りが聴こえる。

恂子は、その音を聴く度に、身体がうずいた。
最初はかすかであったが、
今やはっきりと、身体が音に反応しているのが分かった。
(GOOに血だ)
岡田の思念が入ってくる。
(俺にも感じる。大小の差はあっても、
GOOの血をひくものすべてに、
何らかの影響を与えているにちがいない)
(私には”来い”と言っているように聞こえますわ)
(恂子、我々は行かねばならんぞ)
岡田がゆらりと立ち上がった。
「またモカね」
小声で言った美雪が、岡田が消えた後、
すぐ立ち上がった恂子を見て、声をかけた。
「先輩、取材ですか。わたしも・・・」
途中で言葉を飲んだ。
いつも優しい先輩が、びっくりするほどきびしい顔をしていた。

モカに行くと由美が待っていたようにシャッターを下ろした。
恂子は岡田と向かい合って、彼の定席に座る。
「行くぞ」
声と同時に、4人がけの席を含む
一坪ほどの床面が急速に下に沈んでいった。

12

同じ頃、
各国の観測ネットワークに組み込まれて
太平洋に潜行中の米ソ原潜は、
移動する音の発信源から、
無数の岩石が射出されているのをキャッチしていた。
ほとんどが海面下1000メートルほどで沈んでいったが、
勢力は徐々に強まっていた。
発信源上にいた原潜は、危険を感じて次々と浮上を始めた。
一時はネオムー帝国の攻撃だとして、
魚雷の使用が検討されたが、それはむしろ自殺行為と知り、
回避作戦にはいった。
しかし彼らの逃げ道はなかった。
太平洋中、至る所から、次々と襲ってきた岩石は、
とうとう海面から300メートルほど上空にまで
吹き上がったのである。

13

「どうしたのだ」
「海底が泡だっているようだ」
二人の枢機卿がそれぞれの自国語で言った。
ネオムー帝国中央政府ビルが、海鳴りの音に合わせるように振動した。
「おっ!」
世界中の火山活動をモニターしていたもう一人の枢機卿が、
おそらく彼らにとって初めての驚きの声をあげた。
地球上、所狭しと荒れ狂っていた火山噴火が、
極東から南北アメリカ、ヨーロッパからアフリカへと、
瞬く間に収まり、
それぞれの山の上空に噴煙の塊を残したまま沈黙してしまった。
自分たちの計画に絶対の自信をもっていた、
4人の枢機卿が、思わず顔を見合わせる。
もう一方のモニターには、
海面から吹き上がっていた岩石群が
徐々に勢いを失って沈んでいくのが映っていた。

・・・と、
今まで無数の岩石群に隠れて見えなかった海上に、
忽然と現れた直径100メートル近い大岩石の上に、
30人ほどの人影が浮かび上がった。

14

「GOOだ!」
枢機卿NO1,”白のお方”が即座に指令を発した。
戦うためにだけ存在している、
藍(インディゴブルー)クラスのVTOLが八方に飛んだ。
熱線がほとばしり、岩石上の何人かが一瞬に炭化した。
同時にGOO側の念波にパイロットの頭をやられたVTOLが
逆巻く波に突っ込む。
だが瞬時に飛び出した、16人の藍クラスは、
岩石上のGOOに向けて殺意の塊を集中させる。
また何人かが崩れ落ちた。

メンバーの中から2人の男が進み出る。
岡田遥之と、サー・ウイリアムズである。
たちまち彼らを藍クラスの殺人霊波が襲った、
が、ほとんど同時に16人の藍クラスは空中浮揚を失い、
海に落下していった。
彼らは自分たちの放った殺人霊波によって滅びたのである。
彼らのパワーが強大であることが、
そしてそれが自分たちに反射するなど
思いも寄らなかったことが、彼ら自身の不幸であった。

15

周りの海原が一変した。
香しい匂いが漂い、一面に花が咲き乱れている。
蝶が飛び交い、遠くから、牧童の吹く笛の音がきこえてくる。

「油断するな!」
岡田の叱咤が飛んだ時には、
GOOのメンバーが岩石ごと氷結していた。
ヴァイオレットクラスの攻撃である。
さらに何人かが、氷塊と化した。

恂子はこの場にいる自分が
どうして生きていられるのか不思議であった。
レーザーの高熱ばかりではなく、
絶対零度に近い超低温にも耐えているのだ。
気がつくと足が岩の中に食い込んでいて、
身体が動かない。

メンバーの数は半減している。
だが、その時にはもう、帝国のヴァイオレットクラスも消滅していた。
岡田が東京アジア総大使館において、
既に同種の攻撃を経験していたことが幸いしたのである。
一瞬それを察知した岡田は、敵の背後に実体化して、
彼らを超空間に葬り去ったのである。

16

中央政府ビルのテラスに、4人の枢機卿が出現した。
彼らはじっと岡田たちを見つめる。
岡田と、サー・ウリリアムズの顔から脂汗がにじみ出る。
今二人は、自分の身体の中で
限りなく膨れあがろうとする心臓と戦っているのだ。
後方にいた老人が静かに歩み寄り、二人の肩に手を置いた。
苦痛が遠のく。
間髪を入れず、二人ともビルのテラスに立っていた。
(すこしでも触れることが出来れば勝てるかもしれない)
岡田は念じた。
だが、すぐに、自分の考えが甘かったことに気づいた。
岡田たちの前方に阿井の姿が出現したのである。
阿井は特に何をしていると言うわけではない。
だが、彼の前には不可視の”時の川”が流れていた。
阿井の姿は存在感に乏しく、
事実、そこにいるが、そこにいないのである。
岡田とウイリアムズが、いかにテレポートしても、
”時の川”に触れた途端に時間が元に戻っていまう。
それは何度繰り返しても同じであった。

17

そして、又岡田たちの心臓が鷲づかみにされる。
二人はその防御にエネルギーを使うことで、
自分たちの能力を封じられてしまった。

ネオムーの二人の枢機卿が、
GOOのメンバーがいる、大岩石の上にテレポートした。
老人、グレートロンリー伯爵は、
ゆっくりと両腕を広げ、他の者たちを守る姿勢をとる。
睨み合いが続いた。
二人の枢機卿の力と伯爵の力が、
テラス上の3対2の力と同様拮抗して、
目にみえない火花を散らしていた。

恂子たち他のメンバーは、黙って見守るしかない。
力の差が歴然としていて、
身体を動かすことさへ出来ないのである。

海が吠える、波が逆巻く。

大岩石をふくむ空間が徐々にゆがみ始めた。
「ウーム」
グレートロンリー伯爵が、顔面を蒼白にして膝をついた。
83歳という高齢が、ねじ曲がった空間に、
即時に対応し切れなかったのである。
「降伏せよ、今なら命に別状はない」
枢機卿NO1の唇が動いた。
伯爵はゆっくりと首を横に振る。
瞬時に彼の身体は四散していた。

18

槙原恂子は、近づいてくる2人の枢機卿を見ても、
どうすることもできなかった。
どういうわけか、両足がしっかりと岩に食い込んで離れない。
だが、大きく見開いた恂子の瞳は緑色をおびて限りなく澄み、
気力は決して萎えてはいない、
それどころか、
岩に食い込んだ足の先から、エネルギーが沸々と沸き上がってくる。
枢機卿の一人が両腕を上げる。
一気にGOOの全員を葬ろうという構えだ。
(阿井さん!)
恂子の心が叫んだ。
一瞬阿井の”時の川”に乱れが生じた。
岡田が翔ぶ、ウイリアムズが翔ぶ。
それを追ってテラスにいた二人の枢機卿が翔ぶ。
阿井を含めた5人の姿は超空間に消えた。
同時に岩上の枢機卿が放った殺人霊波が恂子たちを包む。
海底下600キロで”羽衣”を移動させた、彼らの念動波に、
すべては粉々になって飛び散った。

19

刹那・・・。
轟音とともにに眼前のフェニックス陸塊が火柱を噴き上げた。
背後にも危険を感じて、上空へテレポートした二人の枢機卿は、
放射能汚染をようやくぬぐい去り、
緑の楽園になるはずのフィージー大陸塊が、
あちこちから火柱を噴き上げるのは目のあたりにして、思わず叫んだ。
「女王陛下!」
岡田たちを追って超空間に消えた、残り二人の枢機卿もまた、
北方3000キロの上空に実体化して、
ワシントン陸塊と、マーシャル陸塊が火を噴くのを目にした。
それに呼応して、すべての陸塊が同じように火を噴き上げ、
ネオムー帝国は一転、火の国となって鳴動した。

4人の枢機卿はいったん中央政府ビルに戻った。
「第7,第8、16、23、37、40ガスチェンバー破損」
コンピュータが淡々と恐ろしい事実を伝える。
「第9,17,24,25,38、39ガスチェンバー破損、
自動修復システム作動せず」
ビルが大きく揺れる。

(・・・・・・・)
どこからともなく伝わって来た温かい波動に4人の顔が輝いた。
「女王陛下!・・・」
(・・・・・)
「はい、離脱します」
四方へ飛んだ彼らは、
それぞれの大使館ビルに向けて超空間に入る一瞬に、
ゆっくりと傾き、大きな地殻の割れ目に倒れ込んでいく、
ネオムー帝国中央政府ビルの影を見た。

世界中の人たちが衛星放送による同じ映像に釘付けになっていた。
大きな蝶が燃えていた。
体表から火を噴き、翅が黒煙に包まれて燃えていた。
世界の平和と人類の幸福を求めて
空間を超え、時間を超えて成立したネオムー帝国が
・・・今燃えていた。

20

画像を中継しているもっと上、
いや、もはや上という表現はあたらない。
地球と月の引力が釣り合うところ・・・。
白銀色の6コの球体が浮かんでいた。
2コが重合され、それを取り巻くように、
他の4コが散開している。
遠くに青い水の惑星がひっそりと、その美しい姿を見せ、
今その上で起こっている、
阿鼻叫喚などまったく夢のような、静謐さが漂っていた。

(あなたは、また邪魔なさったのですね)
朝日に輝く露のような思念が、はるか地球へ向かった。
(12000年前、私の領土を沈め、羽衣を奪ったあなた。
真の世界平和を目指す、私の心を踏みにじった、あなた)
(それはちがう)
闇が鳴動した。
(おまえたちのいう平和は、
私の創造したものたちを破壊したにすぎない。
おまえたちは、この星にやって来て以来、
ずっと私の細胞を破壊し続けて来たではないか)
(それは、あなたの創った細胞の一つ一つが
あまりにも戦闘的なものに、成長しすぎたからです。
それはあなた自身をさへ、脅かすに至っているではありませんか)
遠い星からやって来たネオムーの女王は
暗い空間に天女の姿を具現した。
(私はわたし、この第3惑星そのものである。
私は、かつて創造したものたちに何もしはしない。
そのように仕向けたのは誰なのだ。
自分の存在する意味を問うことなく、
一度は、自分たちだけに住みよい世界を創りあげようとし、
今又、未開発の者たちを、ただ盲目的に機械文明へと駆り立てて、
二度にわたって失敗を繰り返した)
(この度は、彼らにとってより善であり、
より幸福であると信じたからなのです)
(神と呼ばれることに増長したのだ。
神の上に神あり、神の下に神あり。
その連鎖をわきまえずに行動したのだ)
(苦は幸福の妨げになり、悪は平和の敵ではありませんか)
天空に輝く大きな月輪のなかに、天女の黒髪が舞った。

21

(天才を集め、無為なるものたちを抹殺すれば、
よい種子ばかりが生まれるものではない。
悪をことごとく追放すれば、善になるものでもない。
すべての対極にある観念を捨て去ることは、
逆にこちら側にあるはずの観念の存在を、
薄めることになるのだ)

この超自然的会話は、その内容にもかかわらず、
両者には感情の高ぶりが感じられない。
天女は冴え冴えとした月光を背に、
あくまでも気高く美しく、地球は静かに回転していた。

(私は彼らに平安を与えようとしたのです)
(平安は不必要だと思うもの、
反対するものを認めるところから生まれ、
対極にある心理こそ、同一であると観じるるところから、
大いなる平安が生まれるのだ)
数瞬、真の沈黙が続いた。

(羽衣は返していただけるのですか)
(おまえはそれを、あれほど望んでいたではないか。
結局悟ることが出来なかったようだが、
おまえの存在には、大きな意味があったのだ)
(私の存在理由ですか)
(また、12000年前と同じ問いをするのか。
おまえは使命を果たし、
やがてこの星に訪れる進化の袋小路は打開された。
還るがよい。
おまえは、おまえの平安を求めて故郷へ還るがよい)

また数瞬が過ぎていった。
すでに”おおいなる古き者たち”は沈黙し、天女の影もない。
二つの天体の光を受けて、
6コの球体だけが、白銀色の光を帯びていた。

22

ネオムー帝国の爆発は3日3晩続き、陸塊は次々と崩れていった。
津波が放射状に広がって、カリフォルニア半島を水没させ、
パナマにおいて、太平洋と大西洋が手をつないだ。
アマゾン川とミシシッピ川は、それぞれ河口から1000キロと、
400キロにおよぶ、楕円形の塩湖を形成した。
ベーリング海峡から流れ込んだ大量の暖水は、
北極海で、渦を巻き、氷水が逆流した。
一方南極ロス海の棚氷は大きく崩れ、
南米南端をはじめとする海域には、
大氷塊が浮遊して、あちこちの港に打ち寄せていた。
日本では東京をはじめ、太平洋側の大都市が、
なすすべもなく津波に蹂躙され、
中国、東南アジア、オーストラリアなどでも同様であった。

今、ムーは再び海に沈もうとしていた。
阿井真舜は
中央太平洋に出現した彼の空間”時の部屋”の中にいる。
彼は静かに、
自分の計画したネオムー帝国の崩壊を見つめながら
考えていた。
アマランサスで恂子の身体から熱いマグマを観じた時、
阿井は自分たち二人の未来を垣間見ていた。
マグマによって築き上げられたものが、
マグマによって、滅びるのに、何の不思議があろう。
ただ一人、大きく時を翔ぶことの出来る彼にとっては、
それも又一時の夢にすぎないことを
予感していたのかも知れない。
部屋の周囲、全体の空間には荒れ狂う海水のなかに、
今、正に飲み込まれようとしている、ネオムー帝国の陸塊群が、
最後のあがきのように、
上空の月に向かって咆哮する姿が展開されていた。

すべては、悠久の時の中に、埋没して行くのであろうか。

23

阿井は片隅の寝台の方へ歩み寄った。
そこには、静かに目を閉じた槙原恂子の姿があった。
彼女は地下から受けたGOOのエネルギーによって、
枢機卿の攻撃に耐えたのである。
わずか百万分の1秒・・・。
だが、阿井にとっては十分な時間であった。
彼は岡田たちを押さえていた”時の川”をゆがませ、
”時の部屋”を創造して、恂子をそこに封じ込めたのである。
そして彼の意図とは別に、”時の川”の一瞬のゆがみが、
間接的に、岡田とサー・ウイリアムズを
救う結果にもなったのである。

(やはり、そういう流れになっていたのだ)
阿井は身をかがめ、そっと恂子に口づけした。
1秒、2秒、3秒・・・。
恂子の頬に血の気がさし、
阿井が離した唇から、微かな吐息がもれた。
恂子は目を開いて、ふと微笑む。
どうして生きているのか、どうしてここににいるのか、
と聞くこともない。
まるで当然の成り行きのように、
信頼しきった澄んだ瞳が、阿井を見上げている。
そのままじっと見つめ合う・・・。

24

槙原恂子は、自分が3日3晩眠っていたことを、
そしてその間に何が起こったかを知った。
「ネオムー帝国は沈んだのですか・・・」

この部屋の周囲に展開されていた光景は、
すでに静けさを取り戻し、
存在を誇示していた、中央政府ビルはその影さえもなく、
あれほどの勢いで浮上してきた大陸塊は、そのかけらも見えない。
暗い空に浮かぶ、弓のようにそげ落ちた月の光のなかに、
未曾有の出来事が終焉した余韻にしては、
あまりにも小さな白波がたっているばかりであった。

恂子は起き上がろうとして、
身体に何もつけていないことに気がつき、
頬を染めて、再び毛布の下に白い裸身を隠した。
身体の節々に痛みを覚える。
阿井によって心は開放されたとはいえ、
瞬時に”時の部屋”に連れ込まれた衝撃に、筋肉が凝り固まっていた。
「もうしばらく休んでいたほうがよい」
阿井の右手がそれとは分からないほど、かすかに恂子の頬に触れ、
彼女は目を閉じた。

どのくらい眠っていたであろうか。
恂子はまどろみながら、左のまぶたに熱いものを感じていた。
それはもう片方に移り、頬を伝わって耳のあたりを彷徨い出す。
「・・・・・」
阿井が何か言っている。
同じ言葉を何度も繰り返していた。
「・・・・・」
恂子は、ふいにその言葉の意味が分かって、彼の肩に手を回した。
(私も愛しています)
恂子は心の中でささやく。
きつく抱きしめられた。
「あっ!」
恂子は小さな叫びを漏らし、思わず目を開く。
いつの間にか隣に阿井の身体が並んでいた。
「愛している」
今度ははっきり声に出して言った。

25

熱いものが耳朶から首筋に移動し、恂子は再び目を閉じた。
阿井の唇は肩から二の腕へと下降する。
だがそれは恂子の身体に直接触れてはいない。
小指一本の幅くらい離れているのだが、
じかに触れられる以上に熱く感じる。
恂子の肌がピンク色に染まっていく。
やがて阿井の唇は、
彼女の、まろやかな丸い双丘を∞の字を描くように行き来しだした。
(・・・・・・・)
阿井の心がささやいている。
彼の唇が移動するたびに、
その部分部分で同じささやきを繰り返している。
恂子も、阿井のささやきを感じるたびに、
その部分の肌が、同じ言葉で答えている。
凝り固まっていた彼女の血が全身を巡り、
身体全体がイキイキと輝き始めた。

時が流れる。
恂子は阿井が、
自分の全身に愛の入れ墨をし終えたのを知って、息を止める。
静かに阿井が入ってきた。
いったん拡散した血が一点に集中する。
(・・・・・)
二人の愛の接点から、また同じ阿井のささやきを感じたと時、
恂子は既に忘我の空間を浮遊していた。

26

ここ1ケ月というもの、晴れたことのなかった雲間から、
時々こぼれてくる陽光は、人々に、新たな希望を与えるかのように、
あたたかく爽やかであった。
ゼロメートル地帯をはじめ、
下町全体を襲った海水も今はすっかり引いて、
灰色にくすんだ街には、力強い復興の槌音がきこえていた。
新宿は大部分が冠水をまぬがれ、
GOO編集部では、
通常のスラッフにスポーツ娯楽担当も加わって、
ネオムー帝国の浮上から沈没に至るまでのドラマを、
特集号にまとめる作業が、急ピッチで進められていた。

星野深雪は、もう一人前の記者兼編集者として、
恂子と二人、まだオーストラリアから帰れないでいる、
弥次喜多コンビの穴を埋めるべく飛び回っている。
追跡調査のため水道橋にやって来た二人は、思わず足を止めた。

ネオムー帝国アジア総大使館が、ひっそりとたっている。
ビルを吹き抜ける風の音だけがむなしくきこえてくる。
近づいて行くと、ビルの周りにはロープが張られ、
10メートル間隔に制服の警官がついている。
朝夕新聞の身分証明書をだして、入れてもらう。
点灯されず、薄くらい1階のロビーには、
都の係官や、刑事らしい男にまじって、
各紙の記者の姿も見える。
撮影は禁止らしく、テレビカメラはなかった。

「自由に歩き回ってもいいでしょうか」
深雪が係官に訊いた。
「2階までは自由。その上は立ち入り禁止です」
「それで、帝国側の誰かと会えるのでしょうか」
「誰もいませんよ」
はき出すような言い方にも深雪は頭を下げる。
羽のように広がっている階段を上がると、
灯の消えた”羽衣”の看板が目につく。
扉は堅く閉じられ人の気配はない。
(阿井さんはこの上にいるんだわ)
恂子の想いが上昇する。
誰もいないのではなく、誰も上へは行けないのだ。
阿井は既に恂子が下に来ていることを察知して、想いを下降させる。
それは、愛する者どうしの指向波であった。
他の者にはキャッチできない二人の想いが、
ビルの中間点で出逢っていた。

27

「何故、こうならなければいけなかったのかしら」
紫色の霧の中にNO3の沈んだトーンがこもる。
「すでに女王陛下は決断されたのですね」
「前から予感があったらしい」
”白のお方”枢機卿NO1は、
ネオムー帝国中央政府ビルでの会見を甦らせた。
「”急の舞”開始準備中」
いつものように、無感動なコンピュータの声が流れている。

28

社に帰った恂子と深雪は、机に向かう。
人っ子一人いないビルの不気味さを前面に出して、
都の係官や、警察の見解を交えた原稿を書き終えた。
張り切って出かけた深雪だが、
当事者に会うことができず、すこしがっかりしている様子が分かる。
「”近鉄”へいこうか」
恂子が誘う。
 
 彼女は今満たされていた。
 そばにはいなくても、一定の所まで近づけば、
 何時でも阿井と想いを通わせることができるのだ。

「イクイク」
深雪がすぐに乗ってくる。
深雪には、ネオムー帝国が沈む前日から、
5日ほど社を休んでいた槙原恂子が、
戻ってくると、ひとまわり大きくなったような気がした。
恂子の何気ない動作や言葉遣いのうちにも、
単なる優しさだけではなく、
生きる喜びと自信があふれているように感じる。
最近深雪は、恂子を本当の姉のように慕っている自分に驚き、
同時にそれを喜んでいた。
心の奥底でしっかりと結びついた、
絆のようなものを感じるのである。

29

三枝由美は、岡田遥之の後ろに回って背広を脱がせる。
岡田は,ほどいたネクタイを由美にわたし、ソファーに深々と座った。
由美はテーブルにグラスを二つ置く。
ビールを取り出し、岡田のグラスになみなみと、
自分のそれには、半分ほど注いだ。

「ご無事で・・・」
由美が小声で言って、二人はグラスを合わせる。
「阿井が恂子を救うために、一瞬にせよ力をゆるめなければ、
おそらく無事では戻れなかっただろう」
岡田は一気にグラスを干した。
「阿井と恂子が愛し合っていたからこそ、
俺もウイリアムズも、
ネオムー枢機卿の強力なPKから逃れることができたのだ」
「伯爵は亡くなられたそうですね」
「壮絶な最期だった。
なにしる地下600キロに隠されていた”羽衣”を移動させたパワーだからな」
「”羽衣”とは本当は何だったのでしょうか」
「彼らは遠い昔、遙かな星からやって来た一族なのだ」
岡田を直接の答えを避けるように、話の方向を変え、タバコに点火した。
「スバルですね」
「そうだ。
一族の女王が、この地球に理想を求めて築いたムー大陸が沈んだ時、
”羽衣”は地下深くに埋もれてしまったのだ」
「彼女はその”羽衣”を12000年の間探し続けていたのですね」
「だから世界各地に羽衣伝説、説話が生まれた。
西欧では、”白鳥処女説話”と言われているが、
その定型は、天女が羽衣を脱いで沐浴している間に、
漁師がそれを盗んで隠す。
帰れなくなった天女は、漁師と結婚して何人かの子女を生む。
子どもたちが2,3歳になった時、”羽衣”を発見して昇天するというものだ」

30

「残された天女の子どもたちは、どうなるのですか」
由美は興味を引かれたように先を促した。
「それぞれの民族の祖となる。
つまり天女は新しい民族を生むために、重要な存在だったのだ」
「天の羽衣教団は、天女の子どもたちの末裔だったのですね」
「そうだ。そして天女は、とうとう羽衣を見つけた。
いや、我々”GOO”の創造者が、返してやったにちがいない」
「何故今になって・・・」
由美は残りのビールを注ぎながら、次の疑問を投げかける。
「説話が示しているように、おそらく彼女の役目は終わったのだろう。
だとすれば、彼女は彼女の世界に生きるのが一番いいのだ。
この地球上に彼女の平安はない」
紫煙がゆれ、独特の甘い香りの満ちた部屋に、岡田の声が溶け込む。
ややあって、由美がポツンといった。
「帰るのですね・・・」
岡田はグラスを空けると、ある情感と共に口を開いた。
「そうだ、帰るのだ、彼らの故郷へ・・・”羽衣”に乗ってな」

ビールを取りに立ち上がった由美は、
何かに引き寄せられるように岡田の膝に崩れた。
たちまち彼の腕に捕らえられ、身体の中心を深々と貫かれていた。
「あぁ・・・」
由美の声が尾を引く。
自分であって自分でない生き物が目覚め、叫んでいた。
1時間が瞬く間に過ぎ、岡田はまだ由美の中にいた。
「好きよ・・・ああ・・・あなたすごいわ・・・」
由美は岡田の首に腕を回して引き寄せる。
唇が重なる。
由美は自分の中で自分が変化していくのを意識していた。
より新しいものへ、より高次なものへと、心が、そして身体が変わっていく。
その時、頂点だと思っても、もっと先があり、そしてさらに先の予感があった。
また1時間が過ぎる。
いま由美の中に宇宙があった。
そのなかで、彼女は人を超えて進化し、一転して獣になり再び人に戻る。
何処までも続く連鎖であった。
進化は循環し、循環しながら、
超える度にまた現れる頂点へと上りつめていった。

31

夜10時。
天上の高みから4個の白銀球が、大気圏に突入した。
それは、太平洋上で四方に分散し、ひとつが東京へ向かった。

「あっ、流れ星!」
食事をたんのうして、恂子と二人、地上に出てきた深雪が、
2,3歩走り出して空を仰いだ。
流れ星は、大勢の人たちが見上げている上空を通過し、
ふと、闇に消えた。
だが、恂子には、
それが闇よりも暗くそびえる、
ネオムー帝国アジア総大使館の中に、吸い込まれていったのが分かった。
言いようのない不安が彼女の全身を襲う。
「急用を思い出したわ。今日はこれでね・・・」
恂子が手を上げた。
深雪が、驚いて振り返った時には、
恂子はすでに止まったタクシーに半分身体を入れていた。
「歌舞伎町」
深雪には、走り出す車の中で恂子が、そう言ったように見えた。

「羽衣収納。”急の舞”開始7時間前」
無人の60階に、コンピュータのうつろな声が響く。
そして同じ意味の音声が
ロサンゼルス、シドニー、サンチャゴのビル内にもこだましていた。

32

”アマランサス”は無人であった。
ここしばらく使用されていないことを物語る、空虚さがただよっている。
恂子は壁画の通路に入った。
心なしか壁一面の蝶も色あせてみえる。
ちょうど目の高さに描かれた、謎の黒い扉の上に、
ぼんやりとした光の塊がよどんでいる。
「阿井さん」
恂子はその光に呼びかけた。
「出発(たびだち)の時がきたのですね」
声にすべての情感がこもっていた。
(私はいつもあなたの内にいるのです)
阿井の残留思念が伝わってきた。

光が一瞬またたいて消えると、
蝶の壁画はただの白い壁に還元していた。

33

5月16日。
夜明け前の冷気のなかに、
ネオムー帝国アジア総大使館ビルが、孤独な黒い影をみせていた。
ビルから20メートルほど離れた周囲に張られたロープと、
昼夜を問わず目を光らせている制服の警官が、
むしろ滑稽に写るほど寂とした趣がある。

ロープを守っていた一人が、
一日中耳にしている風の音のなかに、何か異質な響きを聴いた。
「おい、何fだこの音は」
10メートルほど離れている同僚に声をかけた。
「えっ、何だって」
聞き取れずに問い返した同僚は、
足下に衝撃を感じて思わず足を踏ん張った。
不気味な音と共に、
目の前から7,8,メートル先の地面に亀裂が生じた。
それは円形に走ってたちまちビルを取り囲んでいく。
警官たちがようやく事態に気づいた時には、
亀裂に沿って内部が5メートルほど持ち上がっていた。
自分たちが張ったロープにつかまりながら、
次第に遠ざかる地面を見下ろす警官たちの目には、
狂気を通り越して諦観が宿った。

ネオムー帝国アジア総大使館ビルは、
その周囲30メートルほどの土地とともに、
音もなく垂直に上昇していた。

34

「”急の舞”進行中。”羽衣”作動順調」
ビルの60階。
コンピュータの声に重ねるように NO3が言った。
「行くのですね・・・」
「帰るのだよ、我々の祖先の星へな」
NO1の声に感動がこもる。

ビルの最上部64階。
”白のお方”が結跏趺坐していた。
部屋の中央には、直径10メートルちかい白銀色の球体が浮いていて、
絶え間なく青い光を明滅させながら、ゆるやかに回転していた。

”羽衣”である。

”羽衣”とは反重力発生装置であった。
それは、ネオムー帝国の大陸塊を復活させた
エネルギーのほんの一部を使って、このビルを浮上させていた。

女王の故国スバル系では、この装置によって自らの星のなかを飛び回り、
王家の者たちは、
その血筋に受け継がれてきた、強力な霊波との融合によって、
超空間を翔び、銀河の果てまでも移動していたのである。
その羽衣が失われ帰る手段を無くした女王は、
故国の繁栄を夢見て、
2度にわたって、この地球に自分たちの理想郷を築こうとして、
惑星そのものに拒絶されてしまった。
だが今、羽衣は再び彼女のもとに戻り、
多くの子孫達と共に、なつかしの故郷へ旅立とうとしているのである。

すでにビルは高度500メートルに達していた。
そして、ロサンゼルス、シドニー、サンチャゴにおいても、
それぞれのビルが上昇を開始した。
ほとんどの人たちがまだ眠っている時刻である。
だが、一人だけ、ビルの上昇をじっと見つめている女性がいた。
槙原恂子であった。
アマランサスで、阿井の残留思念から、今朝の別れを知った恂子は、
そのままここに来て一夜を明かした。
(・・・・・・・)
一晩中、空中でしっかりと抱擁し会っていた阿井と恂子の想いが、
やがて少しずつ離れ始めた。
顔が、胸が、腕がそして指先が・・・。
徐々に速度を増しながら限りなく上昇するビルの影は、
2ヶ月ぶりに見る日の出の中で、きらめく光に露となって消えていった。