エピローグ

2ヶ月後、再び統一がなったアメリカ合衆国をはじめ、
世界の国々は、ようやくネオムー帝国の呪縛から解放されていた。
この一年のうちに3億人が死亡し、
中央太平洋の島々や、オーストラリア、パプアニューギニア、
インドネシアなどの地形は大きく変わってしまった。
カリフォルニァ半島とパナマは水没から復活したが、
ミシシッピ川とアマゾン川では、水が引いた後でも、
多くの塩湖が取り残され、長江や黄河でも同様であった。

ずっと春の来なかった東京は、5月末に梅と桜が同時開花したのを機に、
一気に夏に向かって進んでいった。
ネオムーアジア総大使館ビルの飛び立った跡には、
直径150メートルにも及ぶ大きな窪地が、
まるで切り取られたような、鋭角的斜面を見せていた。
まわりには、当局によって柵が立てられ、係官がついているが、
時と共に人々が集まるようになり、
7月になった現在では、ちょっとした東京の新名所になっていた。

「ケープタウンやリスボンに残されたビルにも、
観光客がつめかけているそうですよ」
小山が言った。
「そういえば、良ちゃんがそっちに廻っているようだな」
大川がカメラを向けるまねをする。
オーストラリアから太平洋の島々を巡り、
リスボンとケープタウンに向かったはずの藤守良は、
ネオムー帝国関係の撮影を最後に、
社を辞めてフリーになるのだと聞いていた。
「なんで辞める気になったのでしょうね」
「そりゃーお前、いろいろあるだろうよ」
「そういえば、憑かれたように撮りまくっていましたね」
弥次喜多コンビの会話が続いている。

槙原恂子は、ネオムー帝国の独立宣言以来、
良ちゃんとは、ほとんど会っていない。
この若い優秀なカメラマンが、
いつも自分につかず離れず協力し、援護してくれていたことを思い出す。
(彼はお前に心をよせていた)
(ええ・・・)
他の者には聴き取れない、岡田と恂子の交信である。
「良ちゃんは、きっとフリーで成功するわ」
恂子は、口の中で、小さくささやいた。

ネオムー帝国の特集号は、藤守良から送ってくるはずの、
リスボンとケープタウンの写真を組み入れて、
コメントを加えれば完成というところまでこぎつけ、
編集部は、次に”予言の刻”の復活を検討していた。
このイベントはその性格上、
1年見送るわけにはいかないという論が大半を占めている。
臨時体制を組んでいた、スポーツ娯楽担当も、本来の仕事に戻った。
開幕を3ヶ月遅らせたプロ野球をはじめ、
各種のスポーツが、再び人々の目を楽しませるようになっていた。
「やはり雀聖戦も、決勝だけ残しておくわけにはいきませんよ」
スポーツ娯楽担当デスクの斉藤が、岡田に進言している。
電話が鳴った。
斉藤がとって、岡田に渡す。
岡田は短くうなずいて、すぐに受話器を置く。
「太田黒が失脚した」
岡田はタバコに火をつけながら、独り言のように言った。

国会議員の2/3を占めていた民友党の太田黒首相は、
ネオムー帝国の崩壊後、目に見えて人数を減らしはじめ、
太田黒自身も生気を欠いて、各委員会や本会議での失言が多発した。
同じ人間とは思えないほどの凋落ぶりである。
「もともとネオムー帝国あっての太田黒だったのだ。
今はただの人になってしまった」
「立場やバックにいる者の力によって、勢いを得ている者は、
それが失われると、かわいそうなものですわね」
岡田の言葉に由美が応える。
「でもそんなことに気がつかない人がなんと多いことでしょう」
向かいの席で恂子が言った。

3人は、ほかに客のいないモカの席で、向かい合っている。
恂子は目の前に並んで座っている岡田と由美に一種の憧れを抱いていた。
初めて会った時からそうであったが、
こうして向かい合っていても、二人には男と女という感じはない。
しかし、そこはかとなく漂う雰囲気に、深く愛し合っていることがわかる。
恂子自身が、今、愛の中にいるからこそ分かるのかも知れない。
(私たち二人の愛については、どう思っているのかしら)
恂子はつい考えてしまう。

店内には、もう恂子もおなじみになってしまった
岡田専用のコーヒーの香りが漂っている。
「”GOO”はどうなるのでしょうか」
由美が静かに訊いた。
「大勢のメンバーが失われたのでしょう・・・」
「うむ、伯爵の令息が、国際超常現象会議の後を継ぐことになっている。
それに伴って若い芽が少しずつ覚醒することになるだろう」
岡田が時計をのぞいた。
「世代が移り変わるのですね」
恂子が岡田の意図を知って立ちあがった。
「いってらっしゃい」
由美が控えめな声で見送った。

1時間後、岡田と由美は京王プラザホテルの中宴会場にいた。
復活させた”予言の刻”の会場である。
アイドル歌手、東野京子が物怖じしない態度で時間錠を開放した。
「Sさんの予言です」
彼女は一旦言葉を切って会場を見回す。
「水の底から新しい国が誕生する」
場内にどよめきがおこった。
昨年の新年と同じ風景である。
Sというのは誰だとか、Kとの関係はどうなのかとか、
招待客のあいだで、賑やかな会話が交わされて、会が進行していく。

同じ頃。
リスボンのネオムー帝国ヨーロッパ総大使館ビルは、
赤い屋根と白い壁の続く坂道の行き止まりに、一際高くそびえていた。
ビルの周囲には観光客が群がっている。
この帝国遺産は、各国の研究対象となっていたが、
18階の壁はダイナマイトや、レーザーなど、
可能な限りあらゆる手段をもってしても破壊できなかった。
ヘリコプターでテラスに降り立った研究者たちも、
内部へ入る手段を発見することができないまま、
その表壁やビルの構造などについては、未だ解明されていなかった。

18階にある羽衣の壁の前で、藤守良がカメラを構えていた。
何度かシャッターを切った後、抜けられないはずの壁に吸い込まれる。
27階までを自由に行き来し、無人の通路にシャッター音が響く。
(恂子、俺はようやく分かったぜ。
俺自身が何者であり、何故お前に惹かれるのかを・・・)
良は窓のない壁面から遥か遠い日本の方を眺めた。
「お前は人類にとって希望の星だ。
俺はその光を遮ろうとする者から、お前を守らねばならない。
これからは何時いかなる時でもお前を守ってやるぜ」
自信に満ちた力強い言葉が、良の口をついて出た。

はるか冥王星の軌道を横切って、太陽から遠ざかっていく物体があった。
二つの重合された小さな白銀球と、
四つの細長い漆黒の飛行物体である。
(いよいよ太陽系ともお別れね)
No3の波動が伝わる。
極寒と無重力の中を行く、
ネオムー帝国アジア総大使館ビルの内部60階には、
東京にあった時と寸分違わない世界があり、
紫色の霧が流れている。
「第1回小ワープ開始60分前」
コンピュータの声が流れる。

阿井真舜は58階の自室に佇み、
自分の理想を具現すべく作成した、
ネオムー帝国の縮小模型を眺めていた。
何故か彼には計画挫折の悲哀はなく、
むしろ、自分は与えられた運命に従って生きたのだという、
満足感さえ芽生えていた。
槙原恂子の顔が浮かんだ。
指先に、手に腕に胸にと彼女の肌の感覚が甦ってくる。
やがて彼の姿は霧の中に揺らいで消えた。

”予言の刻”を終えて帰ってきた槙原恂子は、
郵便受けに入っていた封書を見て、思わず声をあげた。
「良ちゃんからだわ}
裏に、シドニーにて、良と書いてある。
部屋に入って封を切った。
写真が入っている。
振り袖を着た恂子の後ろ姿であった。
(おの時のだわ)
前回の予言の刻の会場で、
後ろから閃いたストロボの光を思い出す。
添えられた1枚の便箋にただ1行、
「いつぞやの写真が出来ました」とだけ、
太い大きな文字で書かれている。
だがその余白には、万感の思いが封じ込められていた。
彼はずっと自分の胸に、その写真を持っていたのだ。
恂子の後ろ姿を・・・
恂子はその時、藤守良がそうであったように、
彼のあるべき姿を悟っていた。

写真をしまって机上に目を移す。
そこにも写真があった。
ネオムー帝国の旅立ち以来、
恂子が大切に飾ってきた阿井の姿である。
気がつかないうちに撮られたのか、別の方向を向いている。
いや別のことを考えているのだ。
恂子は、それが何となく自分のことを考えているようで、せつない。
「阿井さん・・・」
想いが宇宙に至り、ひとりでに言葉が出た。
お湯を沸かし紅茶を淹れて、
戸棚にとっておいた手作りのクッキーを添える。
「どうぞ」
恂子は阿井の写真にニッコリ笑って椅子に腰をおろした。

髪の毛がかすかに揺れた。

まるで本当に阿井がいるかのように振る舞っている恂子には、
その時部屋が微妙にゆがんだのに気づくはずもない。
紅茶を一口含むと、初めて”羽衣”で飲んだ懐かしい味がした。
頭の中で弱音の弦がトレモロする。
(どうして・・・)
自然に阿井の写真に目がいった。
「あつ!」
たったいままでそこにあった写真がない。

「久しぶりの味でしょう」
愛しい人の声がささやきかけ、目の前にその姿がにじみ出た。
「・・・」
瞳を大きく見開いて、
目の前の阿井の姿を見つめている恂子は、声もでない。
そんな彼女の目を、やさしくのぞき込んで、
阿井はゆっくりと、自分のためにテーブルに置かれたカップを取りあげる。
「私たちは今、太陽系を離脱しようとしています。
もうすぐスバルへの第1小ワープに入ります。
そうなれば私の時間移動の限界を超えてしまうのです」
「・・・」
恂子は目を見開いているばかりで、まだ声が出ない。

ふと気がついて壁のカレンダーに視線がいく。
5月になっていた。
写真がないのは当然であった。
時間が2ヶ月以上戻っている。
この部屋は彼ら二人と必要な者をのぞいて過去へ転位していたのである。
「最後のお別れに来たのです。もうあまり時間がありません」
阿井は半分ほど飲んだカップを置いた。
二人はどちらからともなく立ち上がっていた。
「・・・ずっとあなとのことを想っていました・・・そしてこれからもずっと・・・」
恂子ははじめて声が出た。
限りなく素直な気持ちの表現であった。
「愛している」
阿井はしっかりと恂子を抱きしめ、
言い尽くすことのできない言葉をくりかえした。
恂子も思いのたけを込めて、阿井の胸にすがった。
その腕がいつの間にか阿井の身体を通り抜けて、
彼女自身の胸を抱いていた。
気がついて机の上を見た。
写真のなかに阿井がいる。
(やっぱりこの時、ほんとうに私のことを想っていたんだわ)
恂子は確信した。
同時に彼女は自分の腹部に新しい生命の鼓動を感じて、
一瞬とまどい、そして自らを強く抱きしめた。

岡田が頭をあげて由美の顔を覗いた。
「どうしたの」
「やはり恂子は、GOOとムーの架け橋になって、
人類を新しく変えることになるようだ」
彼は肩をさすりながら、再び由美の膝の上にに頭をあずけた。
「まだ痛むの」
「ウム、絶対零度の攻撃はきつかったからな・・・」
岡田をまた肩をさすった。

一時の喧噪が過ぎて、編集部には、つかの間の怠惰な時間が流れていた。
「なかなかいい出来やな」
大きな信楽の灰皿の、盛り上がった吸い殻の上に、
さらに灰を積み上げながら、
刷り上がったばかりの、
月間GOO特集号のページをめくっていた岡田が言った。
恂子と深雪、そして取材中のスポーツ娯楽担当記者をのぞいた全員が、
岡田のデスクの周りに集まってきた。
特に目を引くのは、蝶の形に浮かび上がった陸塊群と、
火柱を噴き上げて今正に沈み込もうとする、ネオムー帝国最期の姿である。
一方は優雅で美しく希望に満ち、
もう一方は凶暴な激しさの中に、言いようのない悲哀を漂わせていた。

「すごいわね、どうしてこんなアングルから写真が撮れるのかしら」
深雪が感動したように言った。
「それに、激しさのなかにも、心をうつ情感がにじみ出ているわ」
恂子が付け加える。
「藤守良にとっては、すべてが命をもっているのだ。
そのものの生の息吹をフィルムに感光させているのだ」
岡田が解説する。
「社をやめたら、もう良ちゃんには会えなくなりますね」
深雪がしみじみと言った。
「フフフ、お前は、きっと又、良に会うことになるだろうよ」
岡田にしては、珍しく饒舌である。
「あのネオムー帝国が、こうもあっさり滅びるとは考えもしませんでした」
「おごれる者は久しからずさ」
小山の言葉に大川がすぐに反応する。
「しかし、天の羽衣教団は、
苦しみからの解放と、人類の平和を、その教義にしていたんですよ」
「それぞれが良いと思ってしたことでも、悪を生むことがあるのだよ」
岡田の言葉が合図のように、
各自、自分の席に戻り始めた時、
扉が開いてスポーツ娯楽担当の連中が、ドヤドヤと入ってきた。

10

「おどろいたなぁ、ぶっちぎりだぜ」
「ほんとだ、青森の阿部が優勝するとは、まったく予想外だった」
相変わらず大きな声だ。
「雀聖戦決勝が終わったのね」
深雪が言った。
(阿部は覚醒したのだ)
岡田が机に両脚をあげながら、チラリと恂子を見た。
(良ちゃんもですね)
(そうだ、そして今に深雪もな)
(仲間が増えているのですね)
(そして皆お前に注目するだろう。
お前は人類の夢なのだ。新しい夜明けをつくるのだ)
「新しい夜明け・・・」
思わず恂子は声をだした。
手が腹部に触れていた。

電話が鳴る。
岡田は、やおら両脚を下ろし、受話器を取る。
「そうか、やはりな」
小さい声が聞こえた。
デスクの山崎を呼んで、何か指示を与えた後、大股に部屋を出て行く。
「仕事だ、仕事!」
突然山崎が怒鳴った。
「んもう、いやになっちゃうわ」
深雪がふくれる。
「リスボンとケープタウンで、
残されたネオムー帝国のビルが崩れ落ちたそうだ。
弥次喜多コンビは、すぐに現地に飛んでくれ」
二人は、はじかれたように立ち上がった。

編集部には再び騒然とした活気が戻り、
岡田のいない机の上で、閉じられた特集号の、水色の表紙が、
赤の題字を主張していた。
”ムーの幻影”
夏の強い陽射しの中であった。

・・・完