出発(たびだち)
5
曲立彦は、日増しに強まる海鳴りの発信源を調査すべく、
グァムを出航した”よこすかⅡ”の甲板に立っていた。
しばらくイライラの原因であった所長が突然倒れ、
曲は、その代行を命じられていたが、
3日前、海洋科学技術センターから、海洋調査の依頼を受けて、
”しんかい6500”に乗ることになった。
目的地はビチアス海淵である。
国中が、火山噴火で大騒ぎをしているさなかに、
曲は何か割り切れない気持ちもないではなかったが、
海洋学者としての興味が、それに数段勝っていた。
例によってあわただしい出発ではあったが、
こうして海を眺めていると、平穏な気持ちになってくる。
1年ほど前、大学を辞めるにあたって考えた事柄を思い出す。
パイプに火をつけ深く吸い込んで咳き込んだ。
いつものことだと思いながら、また大きく咳き込み、
苦しさに身体を丸めた。
取り出したハンカチで口を押さえる。
「ウッ」
手からパイプが落ちた。
白いハンカチが真っ赤に染まっている。
あたりを見回し、素早くハンカチをたたんでポケットにねじ込んだ。
パイプを拾ってゆっくりと身体を起こす。
その時彼は、初めて妙に怒りっぽくなり、
先を急がされているような気になっていた、真の理由を知った。
それは、地震のせいでも所長のせいでもない、
他ならぬ彼自身の病のせいであった。
(自分を酷使しすぎて来た。これを機にすこし休むことにするか)
曲は最近船の上で思ったことが
一度も実現していなかったことに気づいて苦笑しながら、
右手でそっと胸をさする。
いがらっぽい味が口に残っていた。
波が立ち騒ぐ。
海が呼んでいる。
曲にはそう聞こえた。
「よし、明日は潜るぞ」
決然と言ったが、心は灰色であった。
以前見た真っ赤な夕陽と、きらめく光の帯は、今はない。
船はさらに暗く深い、マリアナ海溝にさしかかろうとしていた。
6
相変わらず晴れることのない空に下、
”しんかい6500”は、
母船”よこすかⅡ”のクレーンで海面に下ろされた。
パイロットの小田桐がチェックしている間、
外ではダイバーが出て、クレーンのワイヤーを外しにかかる。
やがて母船から潜水の合図があり、25トンの巨体が下降を始めた。
曲立彦は、すでに一度潜っているので、
かなりなれた目で、大型の牡丹雪のように下から上へ流れていく
マリンスノーを眺めていた。
「深度300」
コ・パイの白戸が言った。
水は徐々に暗さを増し、やがてまったくの闇となる。
機器の作動音だけが、唯一船の健在ぶりを主張していた。
「予定どうり行きますよ」
小田桐が曲を見た。
ビチアス海淵東部、約100キロにある、
深さ2000から4000ートルの大きな海台に下りようというのである。
「音がきこえませんね」
例の海鳴りである。
「船内だからでしょう。ソナーには反応しています」
小田桐が白い歯を見せた。
「深度2000」
前部投光器が少しずつ迫ってくる海台上部を照らし出した。
泥か砂であろうか、波のような模様が見えている。
「着艇」
泥が舞い上がり、しばらく視界をを閉ざす。
「深度2300。視界4メートル。泥と砂の堆積は少ない。
下部はすぐ岩盤のようです」
白戸が母船に報告する。
マニピュレーターによるサンプルの採取など、
一通りの調査の後、船は一端海底を離れ、水平に移動を始めた。
(出発7~8へ続く)