NO 236

出発(たびだち)

曲立彦は、日増しに強まる海鳴りの発信源を調査すべく、
グァムを出航した”よこすかⅡ”の甲板に立っていた。
しばらくイライラの原因であった所長が突然倒れ、
曲は、その代行を命じられていたが、
3日前、海洋科学技術センターから、海洋調査の依頼を受けて、
”しんかい6500”に乗ることになった。
目的地はビチアス海淵である。

国中が、火山噴火で大騒ぎをしているさなかに、
曲は何か割り切れない気持ちもないではなかったが、
海洋学者としての興味が、それに数段勝っていた。
例によってあわただしい出発ではあったが、
こうして海を眺めていると、平穏な気持ちになってくる。
1年ほど前、大学を辞めるにあたって考えた事柄を思い出す。
パイプに火をつけ深く吸い込んで咳き込んだ。
いつものことだと思いながら、また大きく咳き込み、
苦しさに身体を丸めた。
取り出したハンカチで口を押さえる。
「ウッ」
手からパイプが落ちた。
白いハンカチが真っ赤に染まっている。
あたりを見回し、素早くハンカチをたたんでポケットにねじ込んだ。
パイプを拾ってゆっくりと身体を起こす。
その時彼は、初めて妙に怒りっぽくなり、
先を急がされているような気になっていた、真の理由を知った。
それは、地震のせいでも所長のせいでもない、
他ならぬ彼自身の病のせいであった。

(自分を酷使しすぎて来た。これを機にすこし休むことにするか)
曲は最近船の上で思ったことが
一度も実現していなかったことに気づいて苦笑しながら、
右手でそっと胸をさする。
いがらっぽい味が口に残っていた。

波が立ち騒ぐ。
海が呼んでいる。
曲にはそう聞こえた。

「よし、明日は潜るぞ」
決然と言ったが、心は灰色であった。
以前見た真っ赤な夕陽と、きらめく光の帯は、今はない。
船はさらに暗く深い、マリアナ海溝にさしかかろうとしていた。

相変わらず晴れることのない空に下、
”しんかい6500”は、
母船”よこすかⅡ”のクレーンで海面に下ろされた。
パイロットの小田桐がチェックしている間、
外ではダイバーが出て、クレーンのワイヤーを外しにかかる。
やがて母船から潜水の合図があり、25トンの巨体が下降を始めた。
曲立彦は、すでに一度潜っているので、
かなりなれた目で、大型の牡丹雪のように下から上へ流れていく
マリンスノーを眺めていた。

「深度300」
コ・パイの白戸が言った。
水は徐々に暗さを増し、やがてまったくの闇となる。
機器の作動音だけが、唯一船の健在ぶりを主張していた。
「予定どうり行きますよ」
小田桐が曲を見た。
ビチアス海淵東部、約100キロにある、
深さ2000から4000ートルの大きな海台に下りようというのである。
「音がきこえませんね」
例の海鳴りである。
「船内だからでしょう。ソナーには反応しています」
小田桐が白い歯を見せた。

「深度2000」
前部投光器が少しずつ迫ってくる海台上部を照らし出した。
泥か砂であろうか、波のような模様が見えている。
「着艇」
泥が舞い上がり、しばらく視界をを閉ざす。
「深度2300。視界4メートル。泥と砂の堆積は少ない。
下部はすぐ岩盤のようです」
白戸が母船に報告する。
マニピュレーターによるサンプルの採取など、
一通りの調査の後、船は一端海底を離れ、水平に移動を始めた。

(出発7~8へ続く)

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