出発(たびだち)
26
ここ1ケ月というもの、晴れたことのなかった雲間から、
時々こぼれてくる陽光は、人々に、新たな希望を与えるかのように、
あたたかく爽やかであった。
ゼロメートル地帯をはじめ、
下町全体を襲った海水も今はすっかり引いて、
灰色にくすんだ街には、力強い復興の槌音がきこえていた。
新宿は大部分が冠水をまぬがれ、
GOO編集部では、
通常のスラッフにスポーツ娯楽担当も加わって、
ネオムー帝国の浮上から沈没に至るまでのドラマを、
特集号にまとめる作業が、急ピッチで進められていた。
星野深雪は、もう一人前の記者兼編集者として、
恂子と二人、まだオーストラリアから帰れないでいる、
弥次喜多コンビの穴を埋めるべく飛び回っている。
追跡調査のため水道橋にやって来た二人は、思わず足を止めた。
ネオムー帝国アジア総大使館が、ひっそりとたっている。
ビルを吹き抜ける風の音だけがむなしくきこえてくる。
近づいて行くと、ビルの周りにはロープが張られ、
10メートル間隔に制服の警官がついている。
朝夕新聞の身分証明書をだして、入れてもらう。
点灯されず、薄くらい1階のロビーには、
都の係官や、刑事らしい男にまじって、
各紙の記者の姿も見える。
撮影は禁止らしく、テレビカメラはなかった。
「自由に歩き回ってもいいでしょうか」
深雪が係官に訊いた。
「2階までは自由。その上は立ち入り禁止です」
「それで、帝国側の誰かと会えるのでしょうか」
「誰もいませんよ」
はき出すような言い方にも深雪は頭を下げる。
羽のように広がっている階段を上がると、
灯の消えた”羽衣”の看板が目につく。
扉は堅く閉じられ人の気配はない。
(阿井さんはこの上にいるんだわ)
恂子の想いが上昇する。
誰もいないのではなく、誰も上へは行けないのだ。
阿井は既に恂子が下に来ていることを察知して、想いを下降させる。
それは、愛する者どうしの指向波であった。
他の者にはキャッチできない二人の想いが、
ビルの中間点で出逢っていた。
27
「何故、こうならなければいけなかったのかしら」
紫色の霧の中にNO3の沈んだトーンがこもる。
「すでに女王陛下は決断されたのですね」
「前から予感があったらしい」
”白のお方”枢機卿NO1は、
ネオムー帝国中央政府ビルでの会見を甦らせた。
「”急の舞”開始準備中」
いつものように、無感動なコンピュータの声が流れている。
28
社に帰った恂子と深雪は、机に向かう。
人っ子一人いないビルの不気味さを前面に出して、
都の係官や、警察の見解を交えた原稿を書き終えた。
張り切って出かけた深雪だが、
当事者に会うことができず、すこしがっかりしている様子が分かる。
「”近鉄”へいこうか」
恂子が誘う。
彼女は今満たされていた。
そばにはいなくても、一定の所まで近づけば、
何時でも阿井と想いを通わせることができるのだ。
「イクイク」
深雪がすぐに乗ってくる。
深雪には、ネオムー帝国が沈む前日から、
5日ほど社を休んでいた槙原恂子が、
戻ってくると、ひとまわり大きくなったような気がした。
恂子の何気ない動作や言葉遣いのうちにも、
単なる優しさだけではなく、
生きる喜びと自信があふれているように感じる。
最近深雪は、恂子を本当の姉のように慕っている自分に驚き、
同時にそれを喜んでいた。
心の奥底でしっかりと結びついた、
絆のようなものを感じるのである。
(出発29~30へ続く)